奈良・興福寺「阿修羅像」と陽炎の化身「摩利支天石」に僧兵の幻影を追う!

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奈良・興福寺「阿修羅像」と陽炎の化身「摩利支天石」に僧兵の幻影を追う!

奈良・興福寺「阿修羅像」と陽炎の化身「摩利支天石」に僧兵の幻影を追う!

更新日:2018/12/14 09:45

花月 文乃のプロフィール写真 花月 文乃 地域文化・民俗文化リサーチャー、グラフィックデザイナー、旅行ライター

興福寺・三重塔の前に摩利支天石という巨石があるのを知っていますか?
摩利支天は陽炎の化身ともいわれる女神で、陽炎の持つ性質から護身・勝利を司るとされ武士に信仰されました。その摩利支天を摩利支天石にお祀りし、日々勝利を祈願し武道に励んだ僧侶が興福寺にかつていました。
今回は、興福寺でかつて絶大な力を誇った衆徒(僧兵)と子院である宝蔵院が発祥の宝蔵院流槍術について、ご紹介します。

武装化した僧侶、僧兵と興福寺

武装化した僧侶、僧兵と興福寺

写真:花月 文乃

興福寺といえば阿修羅像というほど、有名な仏像が国宝館に安置されている阿修羅です。
阿修羅は、インド神話の悪神で、仏教の守護神・帝釈天との戦闘を繰り返した神です。すべての衆生が生死を繰り返す六つの世界の一つで、常に争いの絶えない世界と言われる阿修羅道の存在です。阿修羅はまた、仏教の守護神としても知られています。

平安時代後期以降、興福寺にはかつて、阿修羅を象徴するかのような存在がいました。
衆徒は、仏法を守護する名目で武芸を磨き、戦闘に従事した武装化した僧侶です。その姿は、法衣に鎧をつけて布で顔を覆い隠し、長刀や太刀を手に下駄を履いた姿で伝わります。

藤原氏の氏寺でもある興福寺は、神仏習合思想が進むにつれ、春日社との一体化を主張し、衆徒達は春日社の神威を振りかざし暴れるようになります。

衆徒はしばしば、神木や神輿を掲げて都へ大挙して押し寄せ、朝廷や幕府に訴えて自分達の要求を押し通そうとしました。
1093年の神木動座は、近江(滋賀県)の春日社領の神人が高階為家という院の近臣から乱暴を受けたことに端を発し、高階為家の流罪を要求したものです。白河上皇は、衆徒の要求を呑むしか選択はなく、高階為家は土佐へ流罪となります。

興福寺の衆徒達の行動からは、「山階寺道理」という言葉が生まれました。山階寺は、興福寺の古名で、山階寺道理は、非理非道が権力により道理としてまかり通ることを言います。

興福寺・僧兵が創始者。宝蔵院流槍術

興福寺・僧兵が創始者。宝蔵院流槍術

写真:花月 文乃

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安土桃山時代、興福寺の僧侶にある武術家がいました。覚禅房胤栄(1521〜1607)は興福寺子院の宝蔵院の院主で、それまでの素槍に対して、穂先の下部に左右の枝刃を出した十文字形の十文字槍を用いた、宝蔵院流槍術の創始者として知られています。

胤栄は幼い頃から武術を好み、柳生宗厳と共に新陰流の創始者、上泉伊勢守から新陰流やその他の刀術を学びました。柳生宗厳は、後に柳生の山奥で天狗と格闘し、柳生新陰流を生み出します。

一方の胤栄は、猿沢池に浮かぶ三日月をつき鍛錬するうちに感得し、宝蔵院流槍術を創始したといいます。胤栄が考案した十文字槍は、直槍に三日月型の枝槍をつけた猿沢池の月を彷彿とさせる形で、つくだけでなく、巻き落とす、切り落とす、打ち落す、叩き落すなど、平面的にも立体的にも使用出来る画期的なものでした。
晩年の胤栄は、僧侶が殺生を教える自身の矛盾を悟り、槍術から離れ、僧としての活動を主としました。

興福寺・僧兵が創始者。宝蔵院流槍術

写真:花月 文乃

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宝蔵院は、現在の国立奈良博物館の位置に江戸時代末までありました。しかし、明治時代初めの徹底した仏教文化の破壊運動「廃仏毀釈」により取り壊されることになります。
現在、宝蔵院の姿は目にすることはできませんが、奈良国立博物館の敷地内には、宝蔵院槍術発祥地を顕彰する宝蔵院流槍術顕彰碑が残されています。

摩利支天石と僧兵のその後

摩利支天石と僧兵のその後

写真:花月 文乃

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摩利支天は、梵語(サンスクリット語)で「Marici(マリーチ)=陽炎」を意味します。姿を隠す「隠れ身」の性質から護身・勝利を司る女神として、古来より武士を中心に深い信仰を集めてきました。宝蔵院流槍術の創始者・覚禅胤栄もまた、宝蔵院の庭の巨石に摩利支天を祀り、日々武芸に励んだといいます。

宝蔵院が廃仏毀釈で取り壊されるのと同時に、胤栄が摩利支天を祀った摩利支天石も誰にも祀られることなく放置されます。
1887年に、摩利支天石のことを聞いた地元の篤志家の元に引き取られ、112年の間、大切にお祀りされました。

その後、摩利支天石は興福寺に再び奉納され、現在は興福寺三重塔の前に鎮座します。

摩利支天石と僧兵のその後

写真:花月 文乃

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3代にわたり院政を行い、法と慣例を無視し、絶対的な権力を欲しいままにした白河上皇ですら、逆らえなかった衆徒ですが、戦国時代末期に、織田信長・豊臣秀吉らによってその勢力は封じられていきます。

阿修羅は、ソロアスター教では善神と崇められましたが、バラモン教ではインドラ神(仏教でいう帝釈天)と敵対し悪神におとしめられます。
しかし、後に釈迦の教えに帰依し、仏教の守護神となりました。
興福寺で宝蔵院流槍術を創始した覚禅胤栄もまた、その晩年は槍を置き、僧としての活動を主とし仏教につかえました。

宝蔵院は廃仏毀釈により取り壊されましたが、宝蔵院流槍術顕彰碑や摩利支天石にかつての姿を伝えています。
興福寺で阿修羅像を拝観する際は、かつて僧兵が歩いた宝蔵院跡にある宝蔵院流槍術顕彰碑と陽炎の化身摩利支天が祀られた摩利支天石へも足を伸ばしてみてください。

興福寺の基本情報

住所:奈良県奈良市登大路町48
電話番号:0742-22-7755
アクセス:近鉄奈良駅から徒歩約7分

2018年12月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2018/04/21 訪問

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