写真:乾口 達司
地図を見る金剛寺(こんごうじ)は大阪府河内長野市にある寺院。山号を付け加えて「天野山金剛寺」と呼ばれることもあります。寺伝によると、奈良時代、聖武天皇の勅願によって行基菩薩が開いたとされます。弘法大師・空海も修行をしたとされる当地きっての古刹で、中世になると、数多くの堂塔が立ち並ぶまでになりました。
写真は金堂。堂内に安置された本尊の金剛界大日如来坐像(平安時代後期の作)・不動明王坐像・降三世明王坐像(いずれも鎌倉時代前期の作)はそれぞれ国宝に指定されている巨像で、なかでも不動明王坐像と降三世明王坐像は鎌倉時代の名仏師・快慶の弟子に当たる行快の作とされています。
写真:乾口 達司
地図を見る金堂は、近年、解体修理がおこなわれ、2018年3月に落慶法要がいとなまれました。それゆえ、各所にほどこされた彩色もご覧のようにあざやか。創建当時の姿を取り戻した金堂の各所を細部までじっくりご覧ください。
写真:乾口 達司
地図を見る金堂の正面には、ご覧の多宝塔が建っています。江戸時代初期に大規模な改修がなされていますが、その創建は平安時代末期までさかのぼり、現存する多宝塔としては日本最古のものとされています。
写真:乾口 達司
地図を見る金剛寺の歴史で見逃すべきでないのが、南北朝時代、ここが南朝方の中心であったという点。その背後には鎌倉幕府を倒し、建武の親政を推し進めた後醍醐天皇と金剛寺との深い結びつきがありますが、その良好な関係は後醍醐天皇の薨去後も変わらず続いています。
その証拠となるのが、ご覧の天野殿。もともとは食堂として使われていた建物ですが、後醍醐天皇の跡を継いだ南朝の後村上天皇が当地に滞在するようになると、天皇はここで政務をとりました。後村上天皇が当地に滞在したのは1354年から1359年までの5年間。ここで政務をとったということは、金剛寺が、一時期、南朝の中心であったことを示しています。
写真:乾口 達司
地図を見るこちらは観月堂。建物から張り出したところで後村上天皇が月見をしたとされています。都から遠く離れたこの場所で月を眺めながら、後村上天皇はどのような感慨を抱いていたのでしょうか。
ほかにも、境内には後村上天皇が暮らした摩尼院が残されています。
写真:乾口 達司
地図を見るなかでも、驚くべきは、後村上天皇が金剛寺に暮らしていた当時、北朝方の上皇たちが同じく金剛寺に滞在していたことです。大和国の賀名生(あのう)にあった南朝の拠点から北朝方の光厳上皇・光明上皇・崇光上皇さらに直仁親王が金剛寺に移って来たのは、1354年のこと。彼らは南朝方の人質として、現在、本坊の一角にある観蔵院に幽閉されていたのですが、同じ時期に南朝方の後村上天皇と北朝の上皇たちとが金剛寺の境内で過ごしていたこと、驚きではないでしょうか。このような歴史上の事実、ご存知でしたか?
南朝と北朝、敵対関係にあるもの同士とはいえ、彼らはともに都で暮らしていた皇族同士。ときには対面し、自分たちの身にふりかかった互いの数奇な運命を嘆いていたかも知れませんね。
写真:乾口 達司
地図を見るこちらは北朝方の光厳上皇の陵墓。陵墓とはいえ、上皇本人の陵墓は京都・常照皇寺にあり、こちらに埋葬されているのは上皇の遺髪ですが、ここからも金剛寺が南朝のみならず北朝にもゆかりのお寺であったことがうかがえますね。
写真:乾口 達司
地図を見る境内をめぐるため、どこに何があるかがわからず、境内の案内図があればいいなと思う人も多いでしょう。そんな人は受付でご覧のような案内ボードを借用しましょう。こちらは近くの河内長野市立天野小学校の6年生たちが作成したもの。QRがついているのも親切ですね。
写真:乾口 達司
地図を見るこちらは天野酒。室町時代中期になると、金剛寺は酒造業を開始。天野酒は金剛寺で作られていた酒を引き継いだもので、河内長野市を代表する銘柄です。金剛寺に参拝した記念に買い求めてみてはいかがでしょうか?
いかがでしたか?金剛寺が南北朝時代の知られざる歴史をつたえるお寺であること、おわかりいただけたでしょうか。南朝と北朝とが鋭く対立していた時代にこのような秘められた歴史があったことを学ぶためにも、金剛寺を訪れてください。
住所:大阪府河内長野市天野町996
電話番号:0721-52-2046
アクセス:南海高野線・近鉄長野線「河内長野駅」よりバスで約20分
2018年6月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2024/4/20更新)
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