怨霊封じ!?奈良市南郊に点在する崇道天皇(早良親王)ゆかりの地探訪

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怨霊封じ!?奈良市南郊に点在する崇道天皇(早良親王)ゆかりの地探訪

怨霊封じ!?奈良市南郊に点在する崇道天皇(早良親王)ゆかりの地探訪

更新日:2014/03/05 12:13

乾口 達司のプロフィール写真 乾口 達司 著述業/日本近代文学会・昭和文学会・日本文学協会会員

崇道天皇という方をご存知ですか?天皇の称号を持つのだから、昔、存在した天皇でしょう?そう思っている人も多いはず。しかし、歴代の天皇のなかにその名を見つけ出すことはできないのです。それもそのはず。実は天皇として即位したことのない方なのです。では、どうして天皇と呼ばれているの?それには世にも恐ろしい理由があるのです。今回は奈良市南郊に点在する崇道天皇ゆかりの地を訪ね、その悲運の生涯に迫ってみましょう。

怨霊封じか?白壁でかこまれた崇道天皇八嶋陵

怨霊封じか?白壁でかこまれた崇道天皇八嶋陵

写真:乾口 達司

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崇道天皇の本名は、早良親王(さわらしんのう)。同母兄の桓武天皇が即位したのにともない、皇太子に選ばれました。ところが、延暦4年(785)、桓武天皇の右腕として長岡京の造営に尽力していた藤原種継の暗殺事件が勃発。この事件に関与したとして、皇太子を廃され、淡路国へと流されます。身の潔白を訴える親王は飲食を断ち、淡路国におもむく途中で絶命したのでした。その遺骸は淡路国に埋葬されるものの、親王に代わって皇太子となった小殿親王(後の平城天皇)の発病や宮廷関係者の立て続く死など、親王の薨去後に災いが次々に発生。親王の怨霊を怖れた朝廷は、延暦19年(800)、親王に「崇道天皇」の尊号を追贈するとともに、陵墓も大和国に移しました。つまり、天皇に即位していないのに天皇の称号をいただいている理由は、悲劇的な最期を迎えた親王の怨念を怖れてのものであったわけです。

親王の陵墓は、奈良市八島町にある崇道天皇八嶋陵に比定されていますが、ご覧のように、陵墓は白壁によってかこまれています。陵墓が白壁でかこまれている理由は不明ですが、あたかも、非業の死を遂げた親王の怨念を必死で封じ込めているかのようにも見えませんか?

親王の怨念をいまに伝える「八つ石」

親王の怨念をいまに伝える「八つ石」

写真:乾口 達司

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写真は、崇道天皇陵の前に残る巨石群。地元では「八つ石」と呼ばれていますが、この巨石群も、実は親王と深い関わりがあります。親王は死にのぞんで9つの石を投げ、石の落ちたところにみずからを葬るように遺言しました。親王の投げた9つの石のうち、8個は同じところに落ち、それが「八つ石」の起源となりました。そして、それが落ちたところこそ、現在、崇道天皇陵のある、ここ、八島町なのです。

もちろん、この神がかったエピソードが、実話であるとはいえないでしょう。事実、巨石群は「八嶋陵前古墳」と呼ばれる古墳の石室の残骸であり、親王の生きた奈良時代末期よりも数百年も前の遺跡です。しかし、それを動かすと祟りがあると信じられているせいで道路の中央に残されたままになっていることからは、いまなお親王に対する地元民の畏怖がいかに強いものであるかが、おわかりになるでしょう。

崇高道天皇陵に鎮座していた嶋田神社

崇高道天皇陵に鎮座していた嶋田神社

写真:乾口 達司

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崇道天皇陵の東方には、春日大社と深い関わりを持つ嶋田神社が鎮座しています。春日大社の本殿は、幕末までほぼ20年周期で建て替えられていました。新しい本殿が完成すると、以前の本殿は各地の神社へ払い下げられましたが、嶋田神社の本殿も払い下げられた社殿の一つで、宝永6年(1709)、春日大社の本殿(第三殿)として建立されていることが、部材に残る銘文からは判明しています。本殿は、現在、奈良市指定文化財に登録されています。

では、この嶋田神社が、なぜ、早良親王ゆかりの神社なのでしょうか。それは、春日大社から払い下げられた本殿の移築先が、崇道天皇陵であったことにちなみます。つまり、崇道天皇陵の上には、写真の本殿がかつて鎮座していたのです。移築されたのは、享保12年(1727)頃。崇道天皇の御魂をまつる神社として、当時は崇道天王社と呼ばれていましたが、崇道天皇陵の整備がおこなわれた明治19年(1886)に嶋田神社に合祀され、現在の地にふたたび移築されました。嶋田神社という名前だけからは親王との関わりをうかがうことはできませんが、社前に建つ石燈籠などには「崇道天王社」と刻まれており、嶋田神社が確かに親王の御魂をおまつりしてきた神社であるとわかります。

親王の御魂をしずめるために次々と神社が!その代表格・西紀寺町の崇道天皇社

親王の御魂をしずめるために次々と神社が!その代表格・西紀寺町の崇道天皇社

写真:乾口 達司

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「崇道天皇」の追贈後も、朝廷は親王の怨念を畏れ、親王の御魂をしずめる神社を建立しました。西紀寺町に残る崇高天皇社も、その一つ。こちらの本殿も、嶋田神社の本殿と同様、天正14年(1586)に建立された春日大社の本殿を移築してきたもので、現在、国の重要文化財に指定されています。

注目したいのは、当社の創建が、大同元年(806)と伝わっていること。社伝が正しいならば、桓武天皇の崩御を受けて即位し、元号を「延暦」から「大同」にあらためた平城天皇は、即位後、ただちに当社を創建したことになります。皇太子時代から親王の怨霊に悩まされてきたと信じる天皇が、みずからの即位にあわせて、いま一度、親王の御魂をしずめようとして当社を創建したとしても、不思議ではないでしょう。それほどまでに、当時の宮廷人は、親王の祟りを畏れていたのですね。

集落のなかにひっそりたたずむ北永井町の崇道天王社

集落のなかにひっそりたたずむ北永井町の崇道天王社

写真:乾口 達司

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親王をまつる神社は、ほかにも存在します。こちらは、北永井町の集落にひっそりたたずむ崇道天王社。すべり台が設置されていることからもおわかりのように、普段、境内は子どもたちの格好の遊び場として利用されており、そのほのぼのとした雰囲気からは、ここが親王の怨霊を封じるために建てられた神社であるとは思えないほど。しかし、そのギャップが、かえって親王の怨霊の凄まじさを際立たせます。

おわりに

早良親王の生涯がいかに悲劇的なものであったか、ご理解いただけたでしょうか。親王をまつった神社は奈良市内に限ってもまだ数多く点在しており、親王に対する畏れが、いまなお根強く残されていることがうかがえます。怨霊封じといえば、いささかドキッとしますが、それだけに稀少価値のあるテーマであり、奈良観光の折、ご自身の足で親王ゆかりの地をめぐり、権力者に翻弄され、非業の死を遂げた親王の悲劇的な生涯に思いを馳せてみてください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/02/26 訪問

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