東京裁判と三島由紀夫事件の現場を見る!市ヶ谷・防衛省探訪

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東京裁判と三島由紀夫事件の現場を見る!市ヶ谷・防衛省探訪

東京裁判と三島由紀夫事件の現場を見る!市ヶ谷・防衛省探訪

更新日:2018/07/12 10:33

澁澤 りべかのプロフィール写真 澁澤 りべか 西洋史ブロガー

かつて陸軍士官学校があった市ヶ谷台。
そこはいま防衛省の敷地となっていて、あの三島由紀夫割腹事件の舞台であり戦後に東京裁判が開かれた「市ヶ谷記念館」が保存されています。
事前に申し込むだけで、誰でも無料でガイド付きツアーに参加でき、写真も撮り放題!(応募者多数の場合は抽選)
昭和史ファン、三島ファンには見逃せない東京観光スポットです。

国家防衛の中枢・市ヶ谷台

国家防衛の中枢・市ヶ谷台

写真:澁澤 りべか

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JR市ヶ谷駅から徒歩約7分。現在防衛省の施設が立ち並ぶ市ヶ谷台は、江戸時代には尾張徳川家の上屋敷があったところで、明治維新後に軍用地となりました。
明治7(1874)年、陸軍士官学校が作られ、昭和12(1937)年8月に神奈川県座間の相武台に移転するまで、「市ヶ谷台」とは士官学校を指す言葉でした。

太平洋戦争が始まる直前の1941年には陸軍省や参謀本部が移転してきて、敗戦まで大本営陸軍本部が置かれます。
戦後は連合軍に接収されますが、1960年に返還されて自衛隊の駐屯地となり、平成12年以降は防衛庁(現・防衛省)の敷地となりました。約25ヘクタールの敷地の中では、約1万人の職員が働いています。

国家防衛の中枢・市ヶ谷台

写真:澁澤 りべか

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正門をくぐると正面に広い階段があり、台地であることがよくわかります。
敷地内には防衛省の庁舎A〜F棟が、巨大なA棟を中心にほぼ左右対称に建ち並んでいて、平等院鳳凰堂を模した配置となっています。
写真中央に見えるのは東端にある庁舎E棟。自衛隊の業務を支援する業務隊と、防衛省職員の生活を支える職員たちが働く場です。

国家防衛の中枢・市ヶ谷台

写真:澁澤 りべか

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受付で許可証を受け取り、左に曲がると見えるのがこの風景。
左端に、自衛隊の通信関係部隊がいる庁舎B棟の屋上に据えられた通信鉄塔がのぞいています。塔の高さは220メートル。
その手前が、まさに日本の国家防衛の中枢となる庁舎A棟。防衛大臣を補佐する内部部局や統合幕僚監部などがあり、建物の大きさは公官庁最大。都内最大級のヘリポートも2つ備えています。
右は庁舎D棟。防衛装備庁と防衛監察本部が入っています。右脇に見える屋根付きエレベーターで台地の上にあがると、このD棟の前に広がる儀仗広場に出ます。

東京裁判の法廷が残る「市ヶ谷記念館」

東京裁判の法廷が残る「市ヶ谷記念館」

写真:澁澤 りべか

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儀仗広場と庁舎A棟の前を横切って進むと、敷地の西端に2階建ての「市ヶ谷記念館」が現れます。あの極東国際軍事裁判、そして三島由紀夫事件の舞台となった建物です。
ただしこれは縮小・移築・一部復元されたもの。かつては、現在庁舎A棟が建っている場所にあり3階建てでした。
ご覧の通り、三島由紀夫が演説をしたあのバルコニーは健在です。
そもそもは昭和12年6月に陸軍士官学校本部として建造され、当時は「一号館」と呼ばれていました。
玄関ホールにはかつて一号館の正面に掲げられていた「大時計」と「桜」が展示されています。

東京裁判の法廷が残る「市ヶ谷記念館」

写真:澁澤 りべか

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終戦後「一号館」はアメリカ軍に接収されます。
その中の大講堂は1946年から48年にかけて開かれた、連合軍による極東国際軍事裁判いわゆる東京裁判の法廷となりました。
向かって左に裁判官席、右に被告人席が設けられ、中央上段の玉座の位置に通訳者、中央下段に検察団や弁護人が座りました。ここで、東条英機ら7人に死刑判決が下されました。
写真は当時傍聴席となっていた2階から撮影したもの。

ただし、移築のさいに大講堂全体が180度回転されたため、当時とは南北が逆になっています。また内装は原則的に創建時の部材を使って、裁判前の状態に復元されています。
位置的には、現在厚生棟がある場所が当時の大講堂の場所となります。

現在、大講堂内には太平洋戦争や東京裁判に関する資料が多数展示されています。中でも栗林中将関連の品や、東京裁判の際に使われたものと全く同じ巨大な地図(右側の壁)などが見どころです。

東京裁判の法廷が残る「市ヶ谷記念館」

写真:澁澤 りべか

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写真は大講堂の演壇側から出入口を見た様子。手前に並ぶベンチは、見学者に資料映像を見せるためのものです。
大講堂の床は演壇に近づくほど高くなるよう傾斜しています。これは玉座から天皇が見渡したときに、2階にいる人の視線が実際よりも低く感じられるための工夫です。

演壇の下に立って足元をよく見ると、ナラ材の床板の一部が新しいものになっていて、復元された箇所がわかります。また床板の所々に白い帯状の褪色が見られるのは、移築が完了するまでのあいだ留めていたテープをはがしたときにできたものです。
演壇に向かって右奥の舞台袖のようなところには、天皇専用の階段も残されていますので、ぜひ忘れずにご覧ください。

三島由紀夫の割腹現場「旧陸軍大臣室」へ!

三島由紀夫の割腹現場「旧陸軍大臣室」へ!

写真:澁澤 りべか

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市ヶ谷記念館の2階には2つの部屋がありいずれも公開されています。
まずは三島由紀夫が割腹自殺をとげた「旧陸軍大臣室」を紹介しましょう。
この部屋は、士官学校時代は校長室、昭和16年以降は陸軍大臣室、そして戦後は陸上自衛隊・東部方面総監室として使用されていました。
現在は、部屋の中央に市ヶ谷記念館のかつての姿の模型が展示されています。
模型と比べると、現在残されている部分が元の建物のほんの一部(約16分の1)であることがよくわかります。

三島由紀夫の割腹現場「旧陸軍大臣室」へ!

写真:澁澤 りべか

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三島はこの総監室を占拠し、「楯の会」のメンバーである部下に総監を拘束させた上で、部屋の一番左の窓からバルコニーに出ました。
そして三島の要求書に従って集められた1000人近い自衛隊員たちを前に、憲法改正を求めるクーデターを呼びかける演説を行ったのち、この部屋に戻り、人質となっていた総監の目の前で割腹自殺におよんだのです。1970年、11月25日のことでした。

三島由紀夫の割腹現場「旧陸軍大臣室」へ!

写真:澁澤 りべか

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この部屋の入って左にある扉には、三島がバルコニーに立つ前に幕僚たちともめあってできた刀傷が3か所残っています。写真はそのうちの一つ。
三島が絶命したのも、この扉の前付近でした。三島ファンにとっては一種の聖地、でしょうか。

また部屋の出口付近には、戦時中に掲げられていた「大本営陸軍部」の墨書の表札が展示されています。

「旧便伝の間」とヘリ試乗

「旧便伝の間」とヘリ試乗

写真:澁澤 りべか

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「旧陸軍大臣室」の隣には「旧便伝の間」があります。
ここは士官学校時代に天皇陛下が休憩されたところで、その後は陸上自衛隊幹部学校の校長室として使用されました。
天皇が快適に過ごせるような工夫が随所に施されています。
この部屋に飾られている大きな写真は、1934年に群馬県で行われた特別演習のさいに撮影されたもので、写っている3800人すべてにピントが合っています。中央最前列の昭和天皇はじめ、山本五十六や東条英機などの姿も見られるのでぜひ見つけてみてください。

「旧便伝の間」とヘリ試乗

写真:澁澤 りべか

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市ヶ谷記念館を出てのすぐのところには、自衛隊のヘリコプターUH-1Hが屋外展示してあり、時間が許せば乗り込むことができます。
飛び立つことはありませんが、操縦席に座っての撮影などはよい記念になるでしょう。
またヘリを見た後は、厚生棟内にある売店で防衛省や自衛隊ならではのグッズを購入できます。市ヶ谷限定のお菓子もあり、東京土産としてもおすすめです。

「旧便伝の間」とヘリ試乗

写真:澁澤 りべか

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最後に訪問するのはメモリアルゾーンです。
緑の芝生の中に作られた白い敷石の一本道のつきあたりに、警察予備隊発足以来、今日までに殉職した自衛官の慰霊碑がたっています。その周辺にはさまざまな石碑があり、訓練用の模擬トーチカも残されています。

これで見学ルートは終了です。
興味を持たれた方は、防衛省のホームページをご参照のうえ、お申込みください。
平日の午前と午後、一日2回実施されており、午前と午後では見学内容が微妙に違います。

防衛省「市ヶ谷台ツアー」の基本情報

住所:東京都新宿区市谷本村町5−1
電話番号:03−3268−3111(防衛省大臣官房広報課記念館係)
アクセス:JR市ヶ谷駅より徒歩7分
(要・事前申し込み)

2018年7月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2018/06/02 訪問

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