写真:井伊 たびを
地図を見る東急田園都市線「池尻大橋駅」の北口より地上に出れば 玉川通りである。頭上の首都高速3号渋谷線に導かれるように5分ほど歩めば、山手通りとT字に交わる「大橋」交差点に辿り着く。今回、ご紹介する「上目黒氷川神社(かみめぐろひかわじんじゃ)」は、その交差点の真ん前である。
当社はこの地区の鎮守神として、地元・氏子の生活を見守り続けている。昔から、この氏子は“疫病知らず”といわれ、現在でも“厄除の神様”として親しまれている。また、2023年には御鎮座450年という大きな節目を迎える。
写真:井伊 たびを
地図を見るやや急勾配の階段を上りきったところで、「お疲れさん!」と迎えてくれる狛犬。正確な奉納時期や石工は不明のようだが、表情や身体つきからして、天明年間(1781年〜1788年)のものだとされている。
写真:井伊 たびを
地図を見る鼻、耳、尻尾に、その時代の特徴がよく表れている。特に鼻の形は、「目黒不動尊」にいる“都内最古の狛犬“に酷似しているところが興味深い。
写真:井伊 たびを
地図を見る上目黒氷川神社のある辺りは、発掘された“大橋遺跡”でも明らかなように、縄文時代から人々が生活していた。古代から現代へ、生活様式が大きく変貌しても、今も変わらずここにあり、地元・氏子の信仰は脈々と受け継がれている。
写真:井伊 たびを
地図を見る手水舎前の“御神木”は、いまから150〜200年ほど前に、近所の人が植えたもの。当初は片手で持てる大きさだったのに、植えた後は不思議と成長が早く、今では高さ20m、幹周り5mを超す大樹に成長している。
写真:井伊 たびを
地図を見る天正年間(1573〜1592年)に、甲州の武田信玄の家臣であった加藤家が、上野原より“産土の大神”をこの地に迎えたのが、当社の始まりとされている。
御祭神は、“悪疫撤退の神様”である素戔嗚命(すさのおのみこと)、“太陽の神様”である天照大御神(あまてらすおおみかみ)と、“学問の神様”の菅原道真公の三柱である。
写真:井伊 たびを
地図を見る台座にまで及ぶ毛並みや風格からして、「正に!江戸時代の作品!」と見間違えるほどの狛犬。意外にも1932年(昭和7年)6月奉納という、狛犬仲間では比較的に若い!
写真:井伊 たびを
地図を見る阿像の狛犬に抱かれる子供の狛犬。親を見上げる眼差しに、石工・廣山藤吉の優しさが漲る芸術品である。
写真:井伊 たびを
地図を見る手毬で遊ぶ吽像の狛犬。毛の流れや背中に刻まれた縞模様を、観れば観るほど江戸後期の名工の作品を彷彿させる狛犬たちである。
写真:井伊 たびを
地図を見る境内社の「目黒富士浅間神社」を参拝する際、より富士山を登っている感覚が、味わえるようにと昭和50年頃に造られた登山道。 毎年、7月1日の山開きの日に、氏子崇敬者と共に登山道を登り“浅間神社例大祭”が行われている。こちらの“目黒富士登山口は、玉川通り沿い当社と交番の間にある。
足腰に不安のある方は、急勾配の正面階段より、こちらからゆっくり参拝されることをお勧めする。昭和60年頃までは、頂上から遠く“本物の富士山”が望めたとのことだ。
写真:井伊 たびを
地図を見る江戸時代、“富士山信仰”が盛んになり、全国各地に富士塚が造られ、各々に「浅間神社」が祀られた。
当社にある「冨士浅間神社」は、もともと上目黒1丁目の目切坂にあった「元富士」を、1878年(明治11年)に、当社の末社として遷したもの。御祭神は、鎮火・安産の神様である「木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」である。
写真:井伊 たびを
地図を見る「元富士」は1812年(文化9年)に、地元の富士講の人々が築いたもので、高さは12mもあったとか。明治11年に取り壊されてしまったが、「石祠の講の碑」は、当時のまま当社に移され、現在にいたっている。
写真:井伊 たびを
地図を見るかつて、こちらの山を“稲荷山”と呼ぶことがあったことから、創建は不明ながら、氷川神社よりも古いとされている「稲荷神社」。
御祭神は、農耕・産業全般の神様の「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」である。現代では、もっぱら“産業の神様”として、三月の午の日(うまのひ)に合わせて、のぼり旗を立て“初午祭”を行っている。
住所:東京都目黒区大橋2-16-21
電話番号:03-3466-2507
アクセス:東急田園都市線「池尻大橋」北口より徒歩5分
2018年7月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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