「戊辰」とは干支の組み合わせにおける暦において西暦を60で割って8を足した数値。つまり明治元年(1868)が戊辰の年で、その時起こった新政府軍と旧幕府軍の戦争だから戊辰戦争と呼ぶのです。
今年2018年は戊辰150周年。〜「義」の想い、つなげ未来へ〜と題し、市内では様々なイベントが催されていますが、その代表的なのが会津若松のシンボル「鶴ヶ城」内の展示です。
普段は郷土資料館として使われる天守閣ですが、2018年は全館幕末戊辰特集!夏季は「白虎隊と会津藩氏の戦い」秋季は「1868年の会津藩」と特集を組んだ企画展示が催されています!
鶴ヶ城は戊辰戦争における会津戦争1ヶ月にもわたる新政府軍の猛攻にも耐え抜いた名城です。大砲でボコボコになった状態で残されていましたが、1874年に取り壊されます。
しかし市民の強い要望で1965年に再建され復活!しかも再現度に強くこだわり、2011年には黒瓦から当時と同じ赤瓦に復元するというこだわりぶり。
鶴ヶ城内の戊辰戦争特集のおかげで、五層の最上階(展望台)につくころには自然と「飯盛山」の方角を探すようになります。そう、あの悲劇で有名な白虎隊の自決の舞台ですね。
<鶴ヶ城の基本情報>
住所:会津若松市追手門1-1
電話:0242-23-8000
アクセス:会津若松駅からまちなか周遊バスで約20分
鶴ヶ城で会津藩の内情を知ったアナタは、必ず「飯盛山」にも足を向けることになるでしょう。
少年兵で構成される白虎隊のうちの士中二番隊の20名が新政府軍に押され、飯盛山に逃走してきたところから始まります。
ただし、飯盛山は白虎隊だけで有名なわけではありません。山中にある国重要文化財である「さざえ堂」はらせん状の通路により、階段がなく、またすれ違うことなく上下して戻ってくる日本唯一の奇抜な建築物です。内部にも入れますので忘れずに見学していきましょう。
この飯盛山から鶴ヶ城が黒煙に包まれているのを見て、落城したものと思い、隊士20名は「義」に殉じることを選び自決します。
会津の藩校である日新館では、藩士の子は「什の掟」と呼ばれる行動原則に従って、会津藩士かくあるべし、を幼少のころより実践します。
そのひとつ「卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ」に従い、オメオメと自分たちだけ生き延びるのは卑怯と感じたわけですね。美しくも悲しい結末ですよね。
しかし、お墓の数は数えてみると19基。なんと自決した白虎隊の中に蘇生した隊士が1名いたんですね!白虎隊の悲劇を伝える生き証人となったわけです。
白虎隊は総勢343名で戊辰戦争後も生き残った白虎隊士も実は多く、飯盛山にある「白虎隊記念館」では生存隊士や山本(新島)八重などのゆかりの品が展示してあり、ぜひ訪れて欲しいスポットです。前述の日新館の教育が優秀だったためか、戊辰戦争後に多くの優秀な人材を輩出していることが分かります。
また籠城婦女など戊辰戦争を戦った女性の存在もこの記念館で知ることができますよ。
<飯盛山の基本情報>
住所:会津若松市一箕町八幡
電話:0242-39-1251
アクセス:会津若松駅からまちなか周遊バスで約5分
会津藩が新政府軍から「朝敵」とまで呼ばれてもなお、旧幕府軍のために戦ったのは言うまでもなく「義」のためです。写真の赤い旗にある葵の御紋でも分かると思いますが、会津松平家は徳川家の血筋をひいています。この徳川幕府への「義」のため、時の藩主である松平容保(かたもり)は、尊皇攘夷派が跋扈する京都の治安を維持する京都守護職への幕府からの任命を断れませんでした。
実はあの「新撰組」も京都守護職である会津藩の御預り。つまり間接的にものすご〜く長州藩や薩摩藩(新政府側)の恨みを京都でかってしまい、会津藩への苛烈な攻めにつながるわけです。
そして、この「義」が更なる悲劇を生みます。
「会津武家屋敷」は会津松平家の家老であった西郷頼母の家老屋敷を再現したもの。その豪華壮大な造りを再現していますが、同時にこの屋敷で起こった悲劇も蝋人形で再現しています。
これは白虎隊自決と時同じくして西郷家の婦女子を含む21名が戦いの足手まといにならぬよう、自決した場面です。自らの子を刺した後自決する母など痛ましくも武家の女性の覚悟が伝わってきます。一人まだ息のあった女性が、乗り込んできた敵兵に「そなたは敵か味方か」と問い、その心中を慮った敵兵が「味方である」と告げ介錯してやるシーンは、聞くも涙、語るも涙。「義」に殉じる会津婦道の極みと言ってよいでしょう。
自刃した者だけでなく籠城戦に参加して、薙刀を振い応戦し戦死した中野竹子や砲術指南役の娘で、銃で参戦した山本(新島)八重など会津藩は武にも優れた人材を男女共に輩出してきました。祖母、母、妹が自刃した柴五郎などは後に陸軍大将になっています。
そして、なんといっても有名なのが姿三四郎のモデル、不世出の柔道家、西郷四郎でしょう。彼はこの武家屋敷の主である西郷頼母の養子であることから、必殺の山嵐を炸裂する姿を敷地内で見ることができます。
<飯盛山の基本情報>
住所:会津若松市東山町石山院内1
電話:0242-28-2525
アクセス:会津若松駅からまちなか周遊バスで約10分
東北で最後まで応戦した会津藩が敗れた後、旧幕府軍の抵抗は新撰組に引き継がれ、函館(当時は箱館)五稜郭の戦いへと続いていきます。
前述の通り、会津藩と新撰組は京都で「義」で繋がっており、会津若松の名湯「東山温泉」の足湯(無料です!)から見える土方歳三もここで傷を癒しました。
なお新撰組の斎藤一は鶴ヶ城籠城戦にも参戦しており、お墓も会津若松市内にあります。
「義」に従い悲劇に見舞われた会津若松の人々の心の傷をいやしたのは東山温泉・・・ではありません。
藩主、松平容保の孫である松平節子が雍仁親王妃勢津子様として1928年に皇族となったことで、逆賊、朝敵のそしりを受けることがなくなったことが大きいのです。なお、この婚約に奔走した、東京大学の総長だった山川健次郎は生存白虎隊士です!
また白虎隊に入隊志願したものの幼かったため、かなわなかった後の大阪市長、池上四郎は文仁親王妃紀子様の曾祖父だったりします。戊辰戦争後に輩出した人材が汚名をすすいでいったんですね。
もちろん東山温泉は旅人にとっては癒しの場。後述する周遊バスで簡単にアクセスできますので、おススメです。
<東山温泉の基本情報>
住所:会津若松市東山町湯本滝ノ場110
電話:0242-27-7051
アクセス:会津若松駅からまちなか周遊バスで約20分
今まで紹介したスポットは全て「まちなか周遊バス」で簡単に巡ることができます!バスはJR会津若松駅を中心に右回りと左回りにそれぞれ毎日18〜20便が運行されており、その1日乗り放題チケットがわずか600円とリーズナブル!
ちなみに駅前には会津の子供が守るべき現代版の什の掟である「会津っ子宣言」が掲げられています。躾の要諦をビシっとまとめたものになっていますので、お子さんと一緒に読んでみましょう。「ならぬものはならぬものです」と。
1日乗り放題チケットは見せるだけで各観光施設で割引料金が適用されますし、前述のさざえ堂、白虎隊記念館に加え、御薬園という松平氏の庭園の3施設の入場料がセットになって1500円というオトクなチケットも販売されています。
このバスがすばらしいのはグルメスポットにもアクセスが良いところ。例えば会津の名産の蕎麦の名店「夢見亭」なら慶山バス停で、「香寿庵」なら北出丸大通りバス停で降りればすぐです。
また名物の桜なべなどの名店「鶴我(写真)」や「吉し多」も会津若松市役所バス亭からすぐと非常に便利。
その他、伝統料理のコースで有名な「渋川問屋」なども七日街駅前バス停の近くにあり(斎藤一の墓もここで下車)、このバスで会津若松のほとんどの観光&グルメスポットを巡れてしまうので、ぜひ上手に活用して「義」に触れてくださいね。
いかがでしたでしょうか?今回は会津若松の「戊辰戦争」時代に関係するスポットを巡り「義」に触れてきました、それ以外も見どころはたくさんあります。例えば、あの有名な細菌学者にしてお札の顔にもなった野口英世が火傷を治療してもらい、感激して医師を目指すきっかになった場所も会津若松です。関連史跡が市中にたくさんあり、そしてこれもまた、まちなか周遊バスで難なく訪れることができるので、おすすめですよ。
それでは気をつけて行ってらっしゃいませ〜。
2018年8月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2024/3/18更新)
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