写真:菊池 模糊
地図を見るてふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った(『春』安西冬衛)
教科書にも載っているこの詩は、サハリンの間宮海峡で詠んだと思われがちですが、実際は、詩人の安西冬衛が1926年に大連で書いたものです。戦前の日本人ひとりひとりが、海を渡り、大連にやってきた不安と希望の錯綜する思いを表現しているとも解釈できるでしょう。
大連は、ロシアが中国に進出した際、フランスのパリのような街にしようと開発した場所です。したがって、中国には珍しいハイカラな街並みがありました。日露戦争で勝利した日本は、そのロシアの考え方を受け継ぎ、美しい街の建設に努めました。日露戦争については、司馬遼太郎の渾身の大著『坂の上の雲』があります。大連〜旅順に行かれるならぜひ読んでください。
ロシア統治時代、大連はダルニーと呼ばれ、その命名者で市長であったサハロフは、日露戦争の進展に伴い、大連市街をほとんど破壊せず、日本へ引き渡すかのように旅順へと撤退しました。このあたりのサハロフの気持ちを推測して書かれたのが清岡卓行の『サハロフ幻想』です。
日本は大連を出発点として鉄道の建設に力を入れ、南満州鉄道株式会社(満鉄)はその中心的役割を果たしました。満鉄は、大連港に着く日本人を満州各地に送り出そうと大連駅の充実を図りました。秦源治ほか著 『大連ところどころ〜画像でたどる帝国のフロンティア〜』や『井上ひさしの大連』によると、大連駅は外観は上野駅に似ていたものの、内部は画期的な試みがなされ、乗降客の動線が重ならないよう考えられていました。この方法は現在の大連駅にも受け継がれ、乗客は二階から改札を通りホームへ降り、逆に到着した客はホームから地下道を抜けて一階から出る仕組みになっています。
写真:菊池 模糊
地図を見る今は中国の高速鉄道の始発駅として大連駅は賑わっています。大連からは、北京、上海、瀋陽、吉林などへ日本の新幹線のような列車が出ています。二階の改札から入り、エスカレータでホームへ降ります。車両はドイツ・シーメンス社のヴェラロシリーズをカスタマイズしたもので「和諧号」と名付けられ、外観は流線型で美しく車内も清潔で綺麗です。
満鉄が苦労して旧・満州に鉄道を敷設していったドラマは、菊池寛の『満鉄外史』に活写されています。その満鉄の列車の頂点が豪華特急列車「あじあ号」で、大連駅から奉天(現・瀋陽)、新京(現・長春)、哈爾浜(ハルビン)へと多くの日本人を運びました。このあたりは、天野博之の『満鉄特急「あじあ」の誕生―開発前夜から終焉までの全貌』や『満鉄を知るための十二章』に詳しいです。
写真:菊池 模糊
地図を見る大連の中心にある中山広場は、戦前は大広場と呼ばれ、ゴシック様式やルネサンス様式の風格のある建物に取り囲まれていました。写真中央は、旧・横浜正金銀行大連支店で、今は中国銀行遼寧省分行となっています。横浜正金銀行は、日本の半官半民の貿易決済・外国為替専門銀行で、後に東京銀行を経て三菱UFJ銀行となりました。
中山広場についての蘊蓄については、清岡卓行の『中山広場』に要領良く書かれています。また、大連育ちの鮎川哲也は、処女作『ペトロフ事件』で中山広場から物語をスタートさせました。
写真:菊池 模糊
地図を見る中山広場のロータリーは現在も機能しており、大連中心部を行き来するのに欠かせません。また、一帯は大連中山広場近代建築群として、中国の全国重点文物保護単位に指定されています。大連観光の花形で、夜は写真のようにライトアップされとても綺麗。こうした大連を写真で見る本としては、呂同挙の『写真で見る中国(1)美しい大連』や北小路健の『写真集 さらば大連・旅順』さらに旅名人ブックスの『大連・旅順歴史散歩』があります。
写真:菊池 模糊
地図を見る中山広場の一角にあるのが有名な大連ヤマトホテル(現・大連賓館)で、多くの著名人が宿泊しました。開業以降100年を経過し、さすがに老朽化していますが、予約すれば見学可能です。ただし、2018年12月現在は宿泊利用はできません。
夏目漱石は、親友で満鉄総裁だった中村是公に招待されて、1909年に胃痛に悩まされながら満州を旅し、大連ヤマトホテル(二代目)に泊まっています。その旅の様子は『満韓ところどころ』という紀行文になりました。それ以降も多くの日本の文人や著述家が利用しています。
写真:菊池 模糊
地図を見るヤマトホテルは、文化人だけでなく、リットン調査団、毛沢東、周恩来、田中角栄、中曽根康弘、宮沢喜一、村山富市など多くの政治家も利用しました。現在、一番の見学スポットとなっているのは、ラストエンペラー溥儀が使った部屋。そこは、執務室と寝室の続き部屋で、さほど大きくありませんが、調度品は見事です。ラストエンペラーについては本人の自伝である愛新覚羅溥儀『わが半生「満州国」皇帝の自伝』が、おすすめです。
写真:菊池 模糊
地図を見る戦前、大連のリゾート地として日本が開発したのが星が浦公園です。大連市の南部にあり、美しい海岸が広がることから、リゾートホテルが建てられ、夏は海水浴客で賑わいました。現在は、星海公園と呼ばれ、写真のように広大な公園を中心に、コンドミニアムやホテルが林立する観光スポットとなっています。
小松茂朗の『さらば大連』は星が浦の砂浜からはじまります。
ここで遊んだ情景は、松原一枝の『幻の大連』や清岡卓行の『アカシヤの大連』に書かれています。この二人は大連育ちで、大連を「ふるさと」として意識し、大連をテーマとした作品を書き続けた作家です。機会があれば二人の大連作品を読み込んでください。遠藤周作も幼少時代を大連で過ごし、長編『深い河』で沼田という人物に託して大連を描いています。
写真:菊池 模糊
地図を見る星が浦山の方にもしら波のひるがへるかなアカシヤ咲きて
これは与謝野晶子が星が浦を詠んだものです。アカシヤが山のほうに波のように連なっている様が表現されています。与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻は、1928年、満州を旅し、大連では星が浦ヤマトホテルに宿泊、多くの短歌を詠みました。その紀行文と歌が収められた名著が『満蒙遊記』で、今は青空文庫で読むことも可能です。
同じころ、北原白秋は満州を旅し、満州唱歌として名曲「ペチカ」を作詩しています(作曲は山田耕筰)。ペチカとはロシア式の薪を燃やす大型暖炉で、大連にも多くありました。音楽関係では、満鉄社員として大連に住んだ東海林太郎がおり、東京へ出て歌手となり成功し、やがて大連で凱旋公演を実施し錦を飾ったのです。
写真:菊池 模糊
地図を見る大連中心部から南に行くと、旧・大連満鉄病院(現・大連中山医院)があります。往時は東洋一の大病院と呼ばれ、お産を病院でするという風習を生んだそうです。このあたりは牧野彰夫の『少年の日の大連』に書かれています。
さらに南へ山手に行くと日本人の高級住宅が多く建っていた日本風情街があります。多くの建物は老朽化したため建替えられましたが、日本人街としての面影がわずかに残されています。
写真:菊池 模糊
地図を見る日本人街から南へ山を越えて行軍すると海辺の名勝地に至ります。これが老虎灘で、遠足などの馴染み深い場所として清岡卓行の『アカシヤの大連』で紹介されています。また、ここは大連中心部から路面電車も通っていたことから、穴場の別荘地として開発されました。当時、大豆の貿易商として成功した瓜谷長造は、ここ老虎灘に自宅兼別荘を建て疎開地としても活用します。そのあたりは、中村欣博の『大連に夢を託した男 瓜谷長造伝』に詳しく書かれています。
名曲「北帰行」の作者である宇田博の『大連・旅順はいま』にも老虎灘は登場します。当時の若者にとっては青春の思い出の地であるのです。
現在、老虎灘は、大連を代表する景勝地となり、中国の芸術家である韓美林の「群虎彫塑」という巨大な虎の彫刻が佇立しています(写真参照)。近くには野鳥園、大連極地館、珊瑚館などもあり多くの観光客で賑わっています。
住所:遼寧省大連市 Dalian, Liaoning Province
アクセス:
東京・大阪・名古屋・広島・福岡・富山から大連周水子国際空港への定期直行便あり
大連周水子国際空港から大連市内中心部まで地下鉄、バスかタクシーで約20分
北京、上海、瀋陽、ハルビン、吉林より高速鉄道あり
2018年12月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2024/12/1更新)
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