上杉謙信公を知るなら新潟県上越市「林泉寺」へ、墓所へも参拝を!

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上杉謙信公を知るなら新潟県上越市「林泉寺」へ、墓所へも参拝を!

上杉謙信公を知るなら新潟県上越市「林泉寺」へ、墓所へも参拝を!

更新日:2018/12/20 16:58

松縄 正彦のプロフィール写真 松縄 正彦 ビジネスコンサルタント、眼・視覚・色ブロガー、歴史旅ブロガー

戦国時代、越後の龍として、また義の人としてその名が知られた上杉謙信公。戦国武将の中でもトップの戦績で、戦いの上手さは他の武将を凌いでいました。謙信公の強さ、義の人がどう形成されたのか、など謙信公を知るなら上越市の「林泉寺」がお勧めです。この寺は春日山城と支城群の中にあり、謙信公の墓所や川中島合戦の戦死者の供養塔もあります。戦国時代、謙信公が如何に生きたのか、その秘密の一端にぜひ触れて下さい。

春日山城支城群内にあった林泉寺

春日山城支城群内にあった林泉寺

写真:松縄 正彦

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上杉謙信公が幼い頃に教育を受けたお寺、それが「林泉寺」です。このお寺は、謙信公の根拠地として有名な春日山城とその支城の間にあるお寺です。
春日山城は“山城”ですが、多くの支城に囲まれていました。その1つが“東城砦”です。砦跡のそばに「春日山城史跡広場」があります。林泉寺へ行くにはまずここからスタートしましょう。広場の正面奥に見える森の方向に林泉寺があり、広場には春日山城の復元模型もおかれています。

また、ここには上杉氏が会津に移封後、領主となった堀秀治によって作られた惣構えの一部である堀、土塁や楼門などが復元されています。廃棄されるまで、春日山城は単なる山城ではなく、山裾の平野部に土塁や堀が作られていた全国でも珍しい城でした。

<春日山城史跡広場の基本情報>
住所:新潟県上越市大豆334
アクセス:えちごトキめき鉄道「春日山駅」から徒歩20分

春日山城支城群内にあった林泉寺

写真:松縄 正彦

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広い史跡広場から徒歩10分程で「林泉寺」に到着します。入り口の両側には背の高い木々が茂っており、ここが静かな環境である事がわかります。実は林泉寺は、曹洞宗の“修行道場”でした。

越後守護代であった謙信公の祖父、長尾能景(ながおよしかげ)がその父の重景の菩提を弔うために1497年に創建した寺で、“林泉寺”という名前は、重景の法名に由来します。以後、長尾氏の代々の菩提寺となり、謙信公は7歳から14歳まで、この寺で第六代住職の天室光育の薫陶を受け、その後、第七代住職の益翁宗謙より禅を学んだといわれます。
祖先の深い信仰、厳しい修行、さらに広い意味で城内で育った環境が謙信公に大きな影響を与えた事がまず分かります。

春日山城支城群内にあった林泉寺

写真:松縄 正彦

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入り口の先にあるのが「惣門」です。この門は春日山城の搦手門が移築されたものといわれ、春日山城の往時が偲ばれる唯一の門です。もともとはカヤ葺き屋根でしたが、カヤが入手困難、またカヤ職人不足のために現在は銅板拭きになっています。
昔は代々の領主もここで下馬し、歩いて中に入っていたのですが、現在は門を通行できません。惣門の脇から境内に入りましょう(入館受付は門の右手にあります)。

謙信公を忍ぶ品々が沢山見られるお寺

謙信公を忍ぶ品々が沢山見られるお寺

写真:松縄 正彦

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惣門の後ろにあるのが「山門」です。これは鎌倉時代の様式の建物ですが、江戸時代に失われ、大正14年(1925年)に再建されました。
この山門の見どころは2つあります。まず山門の前後に立ち、上部を見て下さい。前面には”春日山(かすがさん)”の、後面には”第一義”(写真)という額が掲げられています。これは謙信公直筆のものから複製された書刻です。謙信公(当時は輝虎という名前であった)は第七代の住職のもとに参禅していたのですが、その時に達磨大師と武帝との問答話から禅の第一義を悟るとともに「輝虎筋目を守り非分をいたさざる事」との信念を立てたといわれます。

信仰心が深く、”義の人”として知られた謙信公、その思いがこの”第一義”という書に込められています。なお“春日山”というのは寺の山号です。

謙信公を忍ぶ品々が沢山見られるお寺

写真:松縄 正彦

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また、山門の中央で上を見上げて下さい。“越後の龍”といわれた謙信公を彷彿させる迫力ある龍の画がかかれています。謙信公は“43勝25引分2敗”といわれ、戦国大名の中でトップの戦績を誇る武将でした。その象徴がこの龍の画なのです。

謙信公を忍ぶ品々が沢山見られるお寺

写真:松縄 正彦

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謙信公の思いの一端を知ったところで、山門の右手側にある宝物館に行きましょう。ここには謙信公にゆかりのある沢山の品々が展示されています。
謙信公が生前描かせた貴重な肖像画や前立兜、直筆の書、謙信公が深く信仰した毘沙門天の像、また上杉軍団の軍旗、等などです。

特に見どころは軍旗です。“毘の一字旗”は刀八毘沙門天(とうはつびしゃもんてん:毘沙門天の異形)を象徴し、戦の加護と勝利を意味し、出陣に際して軍団の先頭に掲げられていました。謙信公は自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じていたといわれます。また“龍の一字旗”は不動明王を象徴する旗で、突撃するときに本陣に立てられ、龍がうねるがごとく敵を攻撃せよという意味があるとされます。驚異的な戦績を誇った背後にはこのような信仰心が有ったことが分かります。

また謙信公は「四十九年 一睡夢 一期栄華 一杯酒」と句に詠んだほどお酒が好きでした。宝物館には日夜愛用していた酒盃である“春日杯”も展示されています。

宝物館の入り口でお土産が販売されています。謙信公の思想が反映された“上杉謙信公家訓”や軍旗にちなんだ毘の字の“勝ち守り”、災難除けの“毘・龍のお守り”などがお勧めです。

謙信公の墓に参拝

謙信公の墓に参拝

写真:松縄 正彦

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林泉寺の本堂は惣門・山門を直進した先にあります。本堂の屋根の上にご注目下さい。金色の5つの丸い形があります。この丸の形の中には、この地を治めた代々の領主(長尾氏、上杉家、堀家、松平家、榊原家)の家紋が表現されています。
林泉寺は上越地方の歴代の領主にも尊崇され、その菩提寺でもあった寺なのです。さて、どの紋がどの家のものか当ててみませんか?

謙信公の墓に参拝

写真:松縄 正彦

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本堂に向かい左手の階段を少し上ったところに“川中島の戦いの戦死者の供養塔”があります。川中島では5回も戦いが行われ、特に第4回目の戦いが激しく、多くの戦死者を出したのですが、武田氏とは、雌雄の決着がつきませんでした。

この供養塔、後述の謙信公のお墓の直ぐ近くにありますが、謙信公のお墓よりも“高い”位置に建てられています。通常であれば“低い”位置で建てられるはずですが、謙信公をお守りするという意味があるのでしょうか?それとも、信仰心で結びついていた主従関係を暗示しているのでしょうか?少し不思議な位置関係です。

謙信公の墓に参拝

写真:松縄 正彦

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供養塔の右側に謙信公のお墓があります。謙信公は49歳で亡くなったとされています。死因については過度の飲酒や塩分の摂取による高血圧というのが定説です。遺骸には鎧が着せられ太刀を帯びた姿で甕の中に納められて葬られたといわれます。

通説では、上杉家の会津転封後に米沢の上杉廟所にこの甕が移され、改葬されたと言われていますが、この説は昭和に出されたともいわれ、明確な史料が残っていません。林泉寺の口伝でも墓を移したという情報は無いといわれます。ちなみに上杉家廟所のある米沢の春日山林泉寺はこの上越市の林泉寺から分かれたお寺です。

謙信公のお墓のすぐ右手に林泉寺の歴代住職のお墓があります。謙信公と林泉寺のつながりの深さがこの位置関係で分かります。また、さらにその奥に謙信公の祖先のお墓がありますので、ぜひここにもご参拝下さい。

林泉寺の基本情報

住所:新潟県上越市中門前1−1−1
電話番号:025-524-5846
アクセス:えちごトキめき鉄道の春日山駅から徒歩約20分。車の場合、上越ICから約15分。惣門前に普通車30台が駐車できる無料駐車場があります。

2018年12月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2018/12/10 訪問

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