悲劇の英雄源義経の足跡を追う岩手・平泉の旅

悲劇の英雄源義経の足跡を追う岩手・平泉の旅

更新日:2018/12/27 11:09

歴史上の人物の中でも今昔問わず高い人気を誇る源義経。世界文化遺産のある岩手・平泉はその義経が少年時代を過ごすと共に、最期の地ともなりました。そのため平泉には、義経に縁のあるスポットが点在しています。今回は平泉に残る義経の足跡を追ってみましょう。

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義経を巡るドラマの舞台として有名な「高館」

義経を巡るドラマの舞台として有名な「高館」
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源平合戦で連戦連勝、破竹の勢いで平家を討ち滅ぼしながら、兄頼朝に疎まれ、少年時代を過ごした平泉に逃れた源義経。奥州藤原氏の三代秀衡は、日に日に圧力を強めつつある頼朝への対抗策として、義経を平泉に迎え入れますが、その半年後にこの世を去ります。跡を継いだ四代泰衡は、当初父秀衡の遺言を守り、義経を匿いますが、頼朝の圧力に屈した朝廷から「義経を捕らえれば恩賞を与えるが、義経に与するのならば征伐する」との院宣が出されるに至り、義経を討つことを決意します。

義経の生涯を描いた軍記物語「義経記(ぎけいき)」には、秀衡は逃れてきた義経に「高館(たかだち)」を与えて住まわせたとあり、そこから義経の居館=高館という図式が定着して今日に至ります。

その場所として挙げられるのが、世界遺産の無量光院跡の北にある高館義経堂(たかだちぎけいどう)です。ここがその義経の居館「高館」があったとされている場所で、同時に義経終焉の地だとされています。お堂は江戸時代に建てられたもので、中には義経の木像があります。敷地内には1986年に建立された義経主従の慰霊塔もあります。北上川を見下ろし、束稲山を望む眺望は素晴らしく、平泉随一とも言われます。

<高館義経堂の基本情報>
住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉字柳御所14
電話番号:0191-46-3300
アクセス:JR平泉駅から徒歩16分

義経の妻子や弁慶の墓も

義経の妻子や弁慶の墓も
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同じく世界遺産の金鶏山の入り口近くには、「源義経公妻子之墓」があります。義経は四代泰衡に攻められた折、妻と幼い娘の命を奪った後に自害していますが、ここはその義経の妻子の墓と伝えられています。元は金鶏山の山麓にありましたが、その後現在の場所に移されました。

<源義経公妻子之墓の基本情報>
住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉花立44
アクセス:JR平泉駅から徒歩15分

義経の妻子や弁慶の墓も
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武蔵坊弁慶と言えば、天下無双の怪力を誇る巨漢の僧兵で、義経の忠臣として有名です。泰衡が義経を討とうとした「衣川の合戦」では、主君義経を守るために獅子奮迅の働きを見せ、最期は立ったまま絶命したと伝えられています。いわゆる「弁慶の立往生」です。

その武蔵坊弁慶の墓と伝わる場所があります。世界遺産の中尊寺の入り口近くにある、「武蔵坊弁慶大墓碑」がそれです。そこには中尊寺の僧素鳥が詠んだ「色かへぬ 松のあるしや 武蔵坊」の句碑があります。最期まで変わることのなかった弁慶の義経に対する忠義の心を、色を変えない松の緑にたとえた句ですが、墓碑のそばにはその句の通り、大きな松が立っています。

中尊寺の入り口である月見坂を上っていくとすぐ、この弁慶の名前を冠した「弁慶堂」というお堂があります。お堂の中には弁慶の立往生の様子を描いた大きな弁慶の木像、そしてその隣には義経の座像も。

他に弁慶の自作と伝えられる小さな木像、義経主従のものと伝えられる笈も見られます。

<武蔵坊弁慶大墓碑の基本情報>
住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関
アクセス:JR平泉駅から徒歩18分

<弁慶堂(中尊寺)の基本情報>
住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関202
電話番号:0191-46-2211
アクセス:JR平泉駅から徒歩20分

義経の妻子や弁慶の墓も
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その向かいにある平泉文化史館の敷地内には「源義経衣川古戦場碑」が立っています。泰衡が義経を討とうと仕掛けた衣川の合戦の場所を伝える碑です。建物に入って2階に上がってみると、「弁慶立往生跡」も見えます。

<平泉文化史館の基本情報>
住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉字坂下10-7
電話番号:0191-46-2011
アクセス:JR平泉駅から徒歩20分

本当に義経がいた場所は実は別にある

本当に義経がいた場所は実は別にある
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さて、「義経記」によれば義経の住んでいたところは高館ですが、「義経記」自体後世に成立した物語であり、実はその内容についての信ぴょう性については疑問が呈されているところもあります。高館に関する記述もその一つで、同時代の資料である鎌倉幕府の公文書「吾妻鏡」では、義経が討たれた場所は泰衡の母方の祖父である藤原基成の居館「衣河館(ころもがわのたち)」とあります。

衣河館があった場所は、その名の通り衣川に面した場所であったと考えられています。高館義経堂は衣川沿いではなく北上川沿いなので、義経が最期を迎えた場所は実は現在高館義経堂のある場所ではなかったということになります。したがって、残念ながら弁慶や他の家臣たちが義経を守るために奮戦した場所も、やはり高館義経堂にほど近い平泉文化史館の敷地内ではなかった可能性が高いということになります。

この衣河館の跡ではないかという遺跡が発掘されています。衣川を挟んで中尊寺の対岸にある「接待館(せったいだて)遺跡」がそうです。「接待館」という名ですが、三代秀衡の母親が、そこで道行く旅人をもてなしたという伝承から来ています。実際には、そこからかなり大規模な邸宅跡が出土しており、秀衡や泰衡が政務を行った場所である柳之御所遺跡と同様の、大量の「かわらけ」なども出土していることから、柳之御所と同等の重要な施設であったことが窺え、それでここが藤原基成の居館「衣河館」だったのではないかと言われているのです。

<接待館遺跡の基本情報>
住所:岩手県奥州市衣川区大字下衣川字六日市場
アクセス:JR平泉駅から徒歩44分

本当に義経がいた場所は実は別にある
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接待館遺跡の近くには「室の樹(むろのき)跡(室の樹屋敷跡)」もあります。奥州藤原氏(秀衡、あるいは秀衡の母親とも)が、京都の御室御所(仁和寺)の庭木をこの地に移し替えて庭園を造ったという伝承があるため、この名で呼ばれています。今は春の桜がきれいな場所です。

室の樹跡はあまり目立たないスポットですが、実は平泉に逃れてきた義経主従がここにあった屋敷に居住したという伝承があります。そして、ここに住んだ義経は、妻と共に上衣川の菊の滝で水遊びをしたり、張山にある雲際寺を再興したりした、とも伝えられています。戦に明け暮れ、その後逃亡生活を送った義経にとって、束の間の心安らぐ日々だったかもしれません。

当時、義経が平泉にいることはトップシークレットだったはずですから、それを考えると平泉の中心部にある「高館義経堂」に義経主従が住んでいた可能性は低く、状況的にもそこからさらに北にある接待館遺跡や室の樹跡の辺りにいたという可能性の方が高いと言えます。

<室の樹跡の基本情報>
住所:岩手県奥州市衣川区室の木地内
アクセス:JR平泉駅から徒歩50分

義経ファン必見のスポット

これまで見てきたように、平泉における義経に関係するとされるスポットで最も有名なのは高館義経堂ですが、それ以外に義経が実際にいたと考えられるスポットが実は存在します。

義経ファンの方にはぜひ、平泉に足を運んだ際には高館義経堂だけではなく、源義経公妻子の墓や武蔵坊弁慶大墓碑、そして接待館遺跡や室の樹跡にも訪れてみてください。

2018年12月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2018/04/10−2018/05/20 訪問

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