龍馬のおまるや布団が現存!徳島・鎌村家住宅と金毘羅参詣道

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龍馬のおまるや布団が現存!徳島・鎌村家住宅と金毘羅参詣道

龍馬のおまるや布団が現存!徳島・鎌村家住宅と金毘羅参詣道

更新日:2019/01/04 12:04

春野 公比呂のプロフィール写真 春野 公比呂 歴史研究家、郷土文筆家、郷土登山家

平成3年まで坂本龍馬の大便が残っていた、ということをご存知でしょうか。徳島県美馬市の武家屋敷・鎌村家住宅には、龍馬が脱藩する前月に滞在した伝承があり、龍馬の使用した隠し部屋、布団、番傘、おまるの残骸が現存するのです。見学もでき、おまるを見ることも可。龍馬は讃岐のこんぴらからそこに到ったのですが、その金毘羅参詣道跡には支柱が半分土に埋まった鳥居がある等、龍馬が通った時代を偲ぶこともできます。

龍馬の使用した掛敷布団と枕が

龍馬の使用した掛敷布団と枕が

写真:春野 公比呂

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坂本龍馬は脱藩する約1年半前の文久元年(1861)10月、藩の許可を得て、讃岐の丸亀に剣術修行に出向き、その後、長州や関西に渡って情報収集を行っています。文久2年2月、讃岐に戻った龍馬は勤王活動資金を得るため、琴平町の勤王家・美馬君田(くんでん)に紹介状を書いて貰い、美馬市の山奉行・鎌村熊太の元を訪ねます。しかし熊太は隠し部屋を造るまで一両日、つるぎ町の知人、岡氏宅へ滞在するよう、指示しました。

龍馬が再び熊太邸を訪れると熊太は龍馬に日本のあるべき将来の姿を語り、二人は意気投合します。龍馬は熊太から受けた講義を元に、後にあの有名な「船中八策」をしたためたと言われているのです。
熊太邸は現在「鎌村家住宅」として、国指定の文化財に登録されています。主屋は1839年に建築された木造平屋建で、切妻平入、外壁は妻壁を含め漆喰塗大壁となっています。

この主屋は殆ど建築当時と変わっていません。2010年、隣町で開催された「四国龍馬街道写真展」がきっかけとなり、内部にミニ資料館が設置されました。龍馬の隠し部屋や使用した布団その他が見られるのです。

龍馬の使用した掛敷布団と枕が

写真:春野 公比呂

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熊太は山奉行を兼ねた豪商でしたが、山奉行は町奉行等と比べると身分が下の下級武士。更に熊太の主である徳島藩筆頭家老・稲田氏は藩の主流・佐幕派とは異なる勤王派だったため、熊太は龍馬の熱い想いを汲み取ることができ、活動資金を提供したのです。

隠し部屋は階段を上がった所の屋根裏のような一角にあります。広さは僅か二畳程度で物置のようですが、龍馬がここで寝起きしていたと思うと、胸が高鳴ります。
尚、現在、部屋周囲は整然と片付けられています。

龍馬の使用した掛敷布団と枕が

写真:春野 公比呂

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隠し部屋の隅には龍馬の使用した掛敷布団と、その上には枕が置かれています。信じ難いかも知れませんが、龍馬の滞在した1862年のままの状態なのです。

龍馬の糞尿のニオイを嗅げる?

龍馬の糞尿のニオイを嗅げる?

写真:春野 公比呂

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隠し部屋の存在は、熊太とその跡取りが死去後、部屋周囲に各種荷物が高く積まれ、100年以上忘れ去られていました。平成3年(1991)5月、屋敷の修繕工事を行う際、たまたま発見されたのです。部屋の中には布団の他、手桶のようなもの、番傘、ガスランプが置かれていました。

手桶のようなものは庭先に出しておくと、中の黒っぽいものが少し溶け始め、鼻を近づけると人糞の臭いがしたと言います。しかし家の中にしまうことを忘れて数日が経った後、持ち手部分が崩れ、人糞は無くなっていたのでした。

これは龍馬が使用した携帯便器、所謂おまるなのです。中には小便が飛び散らないよう、藁が敷き詰められています。実際にどんな臭い(ファンにとっては匂い?)がするのか、確かめてみて下さい。

龍馬の糞尿のニオイを嗅げる?

写真:春野 公比呂

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熊太が隠し部屋を造る間、過ごした岡氏邸を龍馬が後にしようとした時、粉雪が舞っていたため、岡氏(下の名は不詳)は龍馬に番傘を貸したと言います。この番傘を触ることができるのは感動もの。

龍馬の糞尿のニオイを嗅げる?

写真:春野 公比呂

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熊太は阿波特産の藍を扱う豪商で全国各地に出向き、販路を広げていました。その際使用していたと思われる駕籠が残っています。讃岐へと行く際は、龍馬の歩いた街道をこれに乗り、辿ったことでしょう。

<鎌村家住宅の基本情報>
住所:徳島県美馬市美馬町坊僧231
FAX:0883-63-2239 
※問合せや見学申し込みはFAXと葉書、手紙のみ
アクセス:徳島自動車道・美馬ICから車で10分ほど。住宅敷地内に駐車スペースあり

半分地中に埋まった金毘羅鳥居

半分地中に埋まった金毘羅鳥居

写真:春野 公比呂

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龍馬が琴平町からこの屋敷まで来るのに辿ったと思われるルートは、一つしかありません。阿讃山脈の県境の峠までは金毘羅参詣道・阿波道、そこから屋敷までは金毘羅参詣道・坊僧道(仮称)を歩いたのです。

双方の街道共、何割かは車道化されていますが、かつて坊僧道を跨いで建っていた金毘羅鳥居が、半分地中に埋まった形で残っています。まるで映画の初代「猿の惑星」のラストシーンに出てくる、砂浜に埋まる自由の女神を彷彿とさせます。展望も優れています。

半分地中に埋まった金毘羅鳥居

写真:春野 公比呂

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坊僧道は所々残っており、道しるべ等も見られますが、立見山集落には地神塔(左)と庚申塔があります。後者は地蔵のようなもので、香川県と徳島県によく見られます。

半分地中に埋まった金毘羅鳥居

写真:春野 公比呂

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地神塔等の石塔が建つ中村会館から県境の無名の峠までは、街道が残っているため、龍馬の追体験をすることができます。尚、峠に建つ道標は街道とは無関係の阿讃山脈縦走路のもの。

龍馬の足跡を辿れば「うだつ」も上がる?

龍馬の足跡を辿れば「うだつ」も上がる?

写真:春野 公比呂

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龍馬の越えたと思われる無名の峠から南東に縦走路を徒歩3分程度で、有名な三頭峠に到ります。香川県側の峠道は9割ほど、龍馬の歩いた街道と重なっていますが、徳島県側は別。
こちらの峠の鳥居は埋もれることなく建っており、道を挟んで天狗のような猿田彦命と天受売(あめのうずめ)命の石像が向かい合っています。後者の石像は乳房を露にしているところが特徴的。

龍馬の足跡を辿れば「うだつ」も上がる?

写真:春野 公比呂

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タクシー等を利用する場合は、香川県側へ下ってもいいのですが、龍馬が一両日滞在した岡氏邸跡へと向かってみましょう。その前に、鎌村家住宅の南西方向に県屈指の古墳・段の塚穴(総称)があるので寄ってみましょう。棚塚と太鼓塚からなる円墳です。前者は直径20m、後者は東西径37 m、南北径33mで四国最大級の横穴式石室を擁しています。暗い羨道を抜けた先に石室が現れるので、ある種探検気分を味わえます。

<段の塚穴の基本情報>
住所: 徳島県美馬市美馬町字坊僧
見学:石室への出入りは自由
電話番号:0883-52-8011(美馬市教育委員会地域学習推進課)
アクセス:徳島自動車道・美馬ICから車で5分ほど

龍馬の足跡を辿れば「うだつ」も上がる?

写真:春野 公比呂

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岡氏は郷民らで組織する「郷鉄砲」という鉄砲組の頭でした。但し子孫は近代、市内の他所へ移っています。屋敷跡敷地には今でも鉄砲の的に使用していた石垣が残っていますが、敷地内見学は許されていないため、手前の畑から跡地全景を捉え、龍馬に想いを馳せてみましょう。

旧家に興味がある方は、北西の貞光の「二層卯建(うだつ)の町並み」を訪ねてみるといいでしょう。その中に岡氏の子孫が経営していた紙問屋「加美屋」もあります。卯建とは装飾が施された袖壁のことで、「うだつが上がる」の「うだつ」の語源にもなっています。

鎌村家住宅は特に貴重な龍馬の伝承地

一般には龍馬の滞在伝承地として四国では、高知・愛媛の両県のものしか知られていませんが、香川県琴平町や丸亀市、徳島県海陽町等にも町史等に記載されている伝承地があります。
今回ご紹介した伝承地も無名ですが、かつて複数の地元紙に紹介されたこともあります。まだまだ脱藩前の龍馬の行動は知られていない部分が多く、伝承地も各地に点在しているのです。そんな中でも鎌村家住宅のように、当時のままの住居や龍馬が使用したと言われる各遺物等が現存しているケースは特に貴重です。

因みに龍馬は熊太邸に数日滞在して活動資金を提供して貰った後、熊太の従者、佐藤兄弟の道案内で土佐へと帰国した旨、伝わっています。
龍馬の遺物に触れ、街道を追体験することで、龍馬の想いを共有することができるでしょう。

2019年1月現在の情報です。最新情報は公式サイト等でご確認下さい。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2009/12/27−2010/04/11 訪問

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