写真:モノホシ ダン
地図を見る佐和山城跡へは、JR彦根駅の改札を出て、彦根城とは反対側の「東口コース」へと進みます。佐和山城跡ハイキングコースの登山口までは徒歩で約20分です。
写真:モノホシ ダン
地図を見る途中には、いくつも方向板が立っていて、迷うことはありません。なお、石田三成の旗印として有名なのが、写真の「大一大万大吉」です。要約すると「ひとりが万民のために、万民がひとりのために尽くせば天下は泰平」という意味で、いかにも清廉高潔な三成のイメージにピッタリという感じがしますね。
ちなみに「大一大万大吉」は、時代は前後しますが、何人かの武将が用いています。また、石田三成の使っていた家紋は、写真の「下り藤」と「九曜紋」の2つです。
写真:モノホシ ダン
地図を見る佐和山城跡の麓にある佐和山会館前には、石製の「佐和山一夜城」があります。彦根商工会議所青年部の創立30周年を記念して2012年(平成24年)に設置されたものです。佐和山城の天守については、三層説と五層説がありますが、近郊の寺院に遺されている絵馬や屏風絵などにより、五層説が有力です。
写真:モノホシ ダン
地図を見る佐和山城跡ハイキングコースの入口(写真)は、龍潭寺の手前の「佐和山城跡観光案内所詰所(3/末〜11/末の土・日・祝の営業)」前からです。詰所が開いていたら、ここで佐和山城跡マップを入手したり、ハイキング情報や注意点を尋ねるのもいいでしょう。
ハイキングコースに入るとすぐ左手に、石田三成の銅像があります。彦根石田三成公顕彰会が、1982年(昭和57年)に建立したもので、ほかにJR長浜駅前や、石田三成の生誕地の滋賀県長浜市石田町にも三成公の銅像があります。三成ファンの方は、銅像めぐりをするのもおすすめです。
写真:モノホシ ダン
地図を見る石田三成は、1560年(永禄3年)に、土豪であった石田正継の子として、近江国坂田郡石田村(現在の長浜市石田町)に生まれました。そして15歳の頃、長浜城主だった羽柴秀吉に見出され、側近として秀吉の天下取りを支えました。三成は1591年(天正19年)、代官として佐和山城に入り、1595年(文禄4年)には湖北4郡、19万4千石を治める城主になりました。
三成はこの時代の人間としては珍しく、利害や打算ではなく、義を重んじる性格でした。それゆえに天下奪取を狙う、約250万石の大大名だった徳川家康に敢然と戦いを挑んだのです。1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いに敗れて敗走後に捕えられ、京都の六条河原で処刑、41歳の生涯でした。
写真:モノホシ ダン
地図を見る関ヶ原の戦いの後に、彦根藩初代藩主で佐和山城主となったのが、2017年NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の主要人物でもあり徳川四天王のひとりと言われた井伊直政です。
直政は、三成が優れた民政家であったことを知っていて、佐和山城入りに際し、家臣たちに「関ヶ原合戦のことをいっさい領民に語るな!」と箝口令を敷き、近江人たちのプライドを傷つけないように配慮したといわれています。
写真:モノホシ ダン
地図を見る佐和山城跡ハイキングコースは、龍潭寺山門(写真)をくぐり、本堂を左に見て、境内墓地を通過し、右側の登山道を進みます。ハイキングコースの入口から山頂までは、徒歩で約30分ほどです。なお、龍潭寺の山門をくぐれるのは、9時から17時までです。ハイキングコースには照明が無いため、できれば16時頃までには下山するようにしましょう。
写真:モノホシ ダン
地図を見る登山道は「切り通し」「西の丸跡」などを経て、本丸跡へと続いています。途中では、急な坂道や足場が悪いところがあり、とくに雨の後などは滑りやすくなっていますので気をつけましょう。
なお、最近、野生の猿の群れが出没することがあります。猿の群れを見かけたら猿と目を合わせたり、食べ物を見せたりしないようにしましょう。とくに食料は、猿が奪いに来ることがあります。
写真:モノホシ ダン
地図を見る本丸跡には「佐和山城趾」と刻まれた石碑が建っています。佐和山城は、関ヶ原の戦いから3日後の、1600年(慶長5年)9月18日に東軍に攻められて落城。三成の父・正継や兄の正澄、三成の妻など一族は皆、戦死あるいは自害して果てました。
写真:モノホシ ダン
地図を見る本丸跡からの眺望は絶景です。南東方向の眺めでは彦根市街や彦根城天守、琵琶湖最大の島で、淡水湖に浮かぶ日本で唯一の有人島である「沖島」までが一望の下。
写真:モノホシ ダン
地図を見る北東方面の眺望では、滋賀県の最高峰「伊吹山(1377m)」や滋賀県でもっとも高い建造物であるフジテックの「エレベーター研究塔(170m)」が。さらに高速で駆け抜ける、新幹線の姿を目にすることも。
写真:モノホシ ダン
地図を見る彦根藩初代藩主の井伊直政は、佐和山城に入って2年後に、関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷が開いて、奇しくも三成と同じ41歳で死去します。跡を継いだ次男の直孝は、新たに彦根城を築城。佐和山城は廃城となります。
その際、佐和山城の石垣や建物は、彦根城築城に転用するために持ち去られ、さらに意図的な破壊も加えられたため、現在はわずかな石垣などが残るのみとなっています。
秀吉亡き後、多くの武将のほかに、秀吉恩顧の豊臣系の武将までが保身のために家康に奔る中、臆することなく義を貫き、家康に戦いを挑んだ三成は、秀吉の期待に応えた唯一の武将と言っていいでしょう。佐和山城跡で、三成公も目にしたであろう風景を眺めながら、武士(もののふ)の夢を感じてみて下さい。
住所: 滋賀県彦根市古沢町
電話番号:0749-22-2954 (彦根市観光案内所)
アクセス:JR東海道本線(JR琵琶湖線)彦根駅から徒歩約20分で登山口
車利用の場合は、彦根ICから佐和山城跡まで約10分
2019年1月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
このスポットに行きたい!と思ったらトラベルjpでまとめて検索!
条件を指定して検索
(2025/2/10更新)
- 広告 -