中国旅順「203高地」で体感する日露戦争の歴史と景観

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中国旅順「203高地」で体感する日露戦争の歴史と景観

中国旅順「203高地」で体感する日露戦争の歴史と景観

更新日:2019/02/06 12:23

大里 康正のプロフィール写真 大里 康正 旅する写真家、タイと台湾に詳しい旅作家

遼寧省大連市の旅順口区は、日露戦争での旅順港を巡る攻防で日本とロシアが激突した場所です。激戦地「203高地」はロシア軍艦が停泊する旅順港まで約4kmの距離。港を見下ろせることからロシア軍が防備を固めたのです。対して日本軍はここから大砲で軍艦を攻撃したい。
1980年には映画「二百三高地」が上映され数々の賞を受賞し、小説は「坂の上の雲」が知られますが、実際はどのような場所か詳しく紹介します。

203高地の山頂に向う

203高地の山頂に向う

写真:大里 康正

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旅順口区は遼東半島南端に位置します。現在は観光地となっている203高地の駐車場付近には、大きなゲートがあります。門の先は現在、旅順国家級森林公園となっており、数多くの桜が植樹されています。開花の季節には、多くの人が花見を楽しみに集まる場所として人気がある場所。

日露戦争を教科書で習う日本人からすると、たくさんの血が流れた場所で花見をすることそのものに疑問を感じるかも知れませんが、多くの中国人はかつての悲惨な攻防についての知識がありません。また、中国人観光客が山頂に行くことはほとんどなく、裾野で花見を楽しむ人たちで賑わうのです。

203高地の山頂に向う

写真:大里 康正

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ゲートを入りすぐの場所で、事前にチケットを購入していればカートを利用し、203高地中腹の駐車場まで行くことが出来ます。所要時間は約3分。カートを利用しない場合は徒歩で坂道を上ることになりますが所要時間は10分程度。

なお、手前のゲートからは未許可の車両は入ることが出来ませんので、レンタカーを利用している場合でもカートか徒歩のどちらかになります。

203高地の山頂に向う

写真:大里 康正

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少し広めの中腹の駐車場に到着。203高地の山頂へは、左側の舗装道路を歩いて上ることになります。なお、裾野部分を含めて一帯が観光地として解放されたのは1990年代前半のこと。それまでは軍用地として立入禁止となっていたのです。

坂道を上がろう

坂道を上がろう

写真:大里 康正

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横に長く広がる203高地ですが、その中央部まではゆっくりと歩いて約15分。歩きながら、ここが203高地の攻防が行われた場所であることを体感してみましょう。

旧日本軍が203高地攻略のため、突撃を繰り返したのはこの観光道路の反対側の斜面となるのですが、傾斜はほぼ同程度。当然ながら舗装された道はなく、観光用の道路のように山の斜面を横切るような緩い傾斜でもありませんでした。

また、木々が生えていない丸裸の斜面を匍匐し、時に立ち上がって一気に突撃を繰り返し、山頂部からの激しい銃撃を受けながら上ったのです。そのようなことに思いを馳せれば、どれほど難しい作戦であったのかが感じられるのでは。

坂道を上がろう

写真:大里 康正

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坂道を上ると203高地中央部となります。ここから右に進むと「爾霊山」忠魂碑があり、左に進むと日本軍が二十八糎榴砲(にじゅうはちせんちりゅうだんほう)で旅順港のロシア軍艦を攻撃した場所となります。まずは右の「爾霊山」に進みましょう。

「爾霊山」忠魂碑

「爾霊山」忠魂碑

写真:大里 康正

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ゆるい傾斜を上るとすぐに「爾霊山」忠魂碑に到着することができます。

「爾霊山」忠魂碑

写真:大里 康正

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爾霊山は「にれいさん」と読み、海抜203mのこの場所を表しています。この漢字を使っているのは、この地で犠牲となった日本兵への慰霊を意味しているからなのです。建立は乃木希典大将であり、彼こそが日露戦争における旅順攻囲戦の指揮を執った第三軍司令官でした。

乃木将軍について、ベストセラーとなった司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」により、作戦の失敗を続け多くの犠牲者を出した無能な指揮官というイメージを持っている人が多いようです。しかしこれはあくまでも小説であり、実際のところは情報と武器弾薬がかなり限定された中で、冷静に状況を分析し、出来る限りの作戦を遂行しているのです。

「爾霊山」忠魂碑

写真:大里 康正

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また、乃木将軍には二人の息子がいましたが、日露戦争においてどちらも戦死しています。長男の勝典(明治12年〜37年)は南山の戦いで腹部に砲弾を受け戦死、次男の保典(明治14年-明治37年)はまさに203高地において、兄の死から6カ月後に戦死。そのような状況でも乃木将軍は最後まで作戦を指揮し、勝利に導いています。

日露戦争後、結果として自分の作戦により多くの犠牲者が出たことを生涯悔んでいたことが知られ、その人間性から多くの人が尊敬しました。同じく戦後には「一人息子と泣いてはすまぬ、二人亡くした方もある」と歌われ、多数の国民が同情を寄せたのです。

「爾霊山」忠魂碑の前では、ぜひともそのようなことを思い出してみて下さい。

日本軍が山頂を目指した203高地の東北側斜面

日本軍が山頂を目指した203高地の東北側斜面

写真:大里 康正

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観光では203高地の中央部で右に曲がり「爾霊山」に向いましたが、「爾霊山」忠魂碑の背後側が日本軍による攻撃があった方向となります。来た道を戻りながら右側の斜面の様子を見てみましょう。

今でも残されているロシア軍が作った塹壕。当時は無かった木々が生い茂り、ほとんど手入れされている様子は無いのですがこの斜面において、日ロ両軍の兵士が多く死傷しているのです。

日本軍が山頂を目指した203高地の東北側斜面

写真:大里 康正

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傾斜が厳しく、塹壕やトーチカ(コンクリートで固めた防御陣地)に隠れたロシア軍兵から攻撃を受け、遮るものも無くほぼ全身むき出しの厳しい状況の中、山頂に日の丸を掲げるため攻撃を繰り返した日本兵。どれだけ過酷な状況であったのかを、思い浮かべてみて下さい。

中央部に戻ったら今度は直進し、日本軍が大砲を設置した場所に向かいましょう。緩い坂道を上り約3分で到着します。

大砲が設置された観測点

大砲が設置された観測点

写真:大里 康正

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二十八糎榴砲は明治17年(1884年)に大阪砲兵工廠が製作。審査の後、明治25年(1892年)から量産されました。全長は2,863mm、砲身重量は10,758kgにもなる巨大なもの。最大射程距離は7,800mで、203高地から旅順港までは約4kmであることからも、余裕を持って軍艦を狙うことが出来たのです。

元々は対艦用の海岸砲であり、日本国内では海岸線に配備されていたものでした。しかし日露戦争では日本から輸送して攻城砲として利用されたのです。

大砲が設置された観測点

写真:大里 康正

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現在この場所にあるのはレプリカですが、その重厚な様子からも当時を思い浮かべることが出来るのではないのでしょうか。

大砲が設置された観測点

写真:大里 康正

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大砲の向いている先こそ旅順港となります。旅順の街も見渡せます。

ここから一発辺り200kgを超える重量の砲弾が、明治37年(1904年)12月5日から5日間に渡り1,000発以上も打ちこまれたのです。ロシア軍艦は、遡って8月10日の日本海軍との「黄海海戦」での損傷修理を終えていない艦があり、中には弁を開いて自沈したものまであったことが戦後の調査で分かっています。

203高地攻略を含む旅順攻囲戦での戦死者は、日本軍約15,400名、ロシア軍約16,000名。

日本軍は旅順港を完全制圧しますが、この後も戦いは続きました。最終的には明治38年(1905年)2月21日から3月10日にかけて行われた奉天会戦でロシア軍は降伏。日露戦争は終わります。

戦前の各国の判断は、国力の差からも日本が勝利するとは考えられていませんでした。当時のロシア陸軍は世界最大、ロシア海軍はイギリスに次ぐ世界二位の実力があるとされていたこともあり、日露戦争で日本勝利を予想した国は無かった中で、国の存亡をかけた大決戦に勝利したのです。

日露戦争において、特に世界中が戦況を見守った旅順攻囲戦。時にこのような戦場跡に足を運び、戦争の辛さ、悲惨を体感してみるのもまた、一つの観光のあり方と言えるのではないでしょうか。

203高地の基本情報

住所:遼寧省大連市旅順口区
電話番号:+86-411-8639-8277
アクセス:大連国際空港からタクシーで約1時間30分

2019年2月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2018/12/01 訪問

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