東京赤坂の乃木神社前の通りが乃木坂。アイドルグループ「乃木坂46」の影響でこの坂を訪れるファンが多く、特に最近では同じく乃木坂46の影響でここを訪れる外国人も多くなりました。乃木坂は世界的に有名な坂の一つと言えるでしょう。
そして、訪れた観光客の多くはそのまま、乃木神社に参拝することが多くなっています。また、東京メトロ「乃木坂駅」がすぐ近くで、アクセスのし易さも人気の理由と言えるのです。
江戸時代までの乃木坂は、現在とはまったく印象が違って幽霊坂と呼ばれていました。名前からすると人通りの少ない坂だったのでしょう。
しかし明治以降、人が少ないことはむしろ軍事的に好都合であり、特に赤坂付近は軍施設が点在することになります。そして、軍人が多く住むようになったのです。その一人が乃木希典(のぎまれすけ)大将ですが、大正元年(1912年)に、明治天皇崩御の後に殉死した乃木大将を悼み、大将の苗字を使って通りの名前を正式に「乃木坂」としたのです。
東京メトロ「乃木坂駅」を出てすぐの場所に「乃木神社」はあるのです。
乃木大将ご夫妻が殉死した翌大正2年、ご夫妻の慰霊を目的とし東京市長阪谷芳郎男爵を会長として中央乃木会が設立されます。大正8年になり、乃木神社建立の認可が下りたことで、今も残されている旧乃木邸の隣地が建立場所と定まるのです。
そして大正12年、11月1日に鎮座祭が執り行われました。その後、昭和20年には空襲で本殿を含めその多くが焼失してしまいます。しかし多くの人々の善意により、昭和37年にご祭神50年祭として復興されました。
そのため、見た目には比較的新しい神社に見えるのですが、そこには日露戦争で大事な作戦を遂行し、勝利を得た乃木大将を慕う多くの人たちの気持ちが込められているのです。心静かに手を合わせてみて下さい。
拝殿から見て右の奥にあるのが正松神社です。
この神社の祭神は玉木文之進と吉田松陰ですが、文之進は幕末の長州藩士であり松下村塾の創立者となります。松下村塾は吉田松陰の印象が強いのですが、松陰は玉木文之進は甥であり、彼は松下村塾で指導していた立場となるのです。
なお、乃木大将の生まれは長州藩の支藩である長府藩であり、後に明治天皇の勅命で学習院長に就任していることからも、出身と教育が縁となった神社。学業向上を祈願してはみてはいかがでしょうか。
正松神社から戻り、左手にあるのが石段を下って入る宝物殿です。入場は無料9時〜17時です。
宝物殿では乃木大将に所縁の品々が展示されており、日露戦争従軍時の軍用品等、当時をしる上でも貴重な品々と言えるでしょう。
また、ご夫妻で殉死に使われた刀が展示されています。日露戦争において旅順攻囲戦は、激闘に次ぐ激闘で多くの戦死者が出ました。乃木夫妻の二人の御子息である長男の勝典(明治12年-37年)は南山の戦いで戦死、次男の保典(明治14年-明治37年)は兄の死から6カ月後に戦死。
時代が昭和になると、司馬遼太郎の小説で日露戦争を描いた「坂の上の雲」がベストセラーとなります。この小説に描かれる乃木大将は自己陶酔し、また作戦の失敗から多くの犠牲者を出した愚将と描かれていますが、一方的な決めつけが多くあくまでも小説。
しかしこの小説を歴史的事実と思い込んでいる人は今でも多いのです。旅順攻囲戦の様々な状況が分かってきている現在、乃木大将については当時出来ることを最大限に行った「名将」という評価となっています。
ぜひとも乃木神社に参拝し、宝物殿で遺品を見つめ、その苦労に思いを馳せてみて下さい。
乃木坂46の影響もあり、多くの若い人たちが参拝する乃木神社では、様々なお守りの人気が高まっています。
祀られる乃木ご夫妻は文武両道の神となっており、特に日露戦争勝利に大きく貢献した乃木大将であることから、勝負運、仕事運のアップ!また、最後の殉死までご一緒された夫人との固く結ばれた愛から、恋愛成就としても知られます。
ぜひ、心を静かに参拝し、その後は自分が求めるお守りを拝受し、また絵馬の奉納を行ってみましょう。
なお、隣接する敷地には今も残されている旧乃木邸があります。これを機会に足を運んでみてはいかがでしょうか。また、乃木大将が活躍した中国大連旅順「203高地」は、観光地として一般公開されています。その他、乃木神社がある赤坂には一千年の歴史を誇る「赤坂氷川神社」も。
これらの詳細は、下記の関連MEMOをご覧下さい。
住所:東京都港区赤坂8-11-27
電話番号:03-3478-3001
アクセス:東京メトロ「乃木坂駅」徒歩1分
2019年3月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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