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埼玉県の史跡に指定されている石田堤。JR高崎線北鴻巣駅の付近、国道17号線と中山道が別れた近くにある「石田堤歴史広場」から少し歩いたところと、少々わかりにくい場所にあります。(詳しい場所は写真右下の「地図を見る」よりご確認ください)
電車利用の場合は、高崎線の鴻巣駅からコミュニティバスで「袋」下車、またはレンタサイクルのご利用が便利です。車利用の場合には専用駐車場があります。「石田堤」の痕跡が目の前に残っており、その堤沿いに北へ歩いて行くと、この表示板の場所に出ます。
写真の左側に石田堤の歴史について案内板があり、道沿いに少しだけこんもりと土塁の様に高くなっています。戦さの当時より土地嵩が上がっているようで、石田堤の高さはこんなものかと錯覚してしまいますが、実際は高さが3.6mありました(諸説あります)。
堤沿いに歩いて行くとコルコートという会社の第2工場があり、その手前に少し広くなった場所があります。ここが石田堤歴史広場です。詳しい案内板もあり、石田堤の高さがより感じられる場所です。表示した地図より北側に100m程歩きます。
歴史の広場から鴻巣駅方向へ300mほど戻ると、新幹線の高架下とその周辺に「石田堤史跡公園」があります。公園内にも石田堤の遺構があり、高くて幅広の石田堤がよく分かります。
写真は、史跡公園の石田堤の上から高架下の遺構を撮影したもの。右側の橋脚には小田原北条氏と成田氏の家紋を描いた矢立風のオブジェと豊臣氏の五七の桐紋と石田氏の大一大万大吉の家紋があります。新幹線が通ると予めそのようにセットされた、俳優・大和田伸也さんらによる歴史ドラマ風の石田堤物語を聞くことが出来ます。
さきたま古墳公園内には様々な古墳があります。その中でも一番大きな「丸墓山古墳」に、石田三成を始めとする豊臣軍が陣を張りました。
丸墓山古墳の頂に登ってみると、確かにここからは忍城の方向が良く見通せます。現在は建築物に遮られて忍城はよく見えませんが、当時は小さいけれど良く見えたでしょう。また総延長28kmにも及ぶ石田堤の全容も垣間見えて、石田三成が悦に入っていた姿が目に浮かんできます。
私達は様々な城跡を訪れる時に、有名だった武将と結びつけてしまいがちです。この忍城も映画で見た成田氏の造った城を再建したものと勘違いしがちです。しかし小田原征伐の際にあった忍城とは違い、江戸幕府が出来た後に譜代大名が多く城主となり、その中の阿部忠秋から孫の正武の頃に築城した城を再建したのが、現在の忍城です。
現在は行田市郷土博物館となっており、2017年4月に「日本続百名城」に選定されました。
忍城天守は正確には「御三階櫓」に分類されます。これは江戸城天守が明暦の大火で燃えてしまった後も、費用を考慮して造り直されることはありませんでした。各地の藩主たちも幕府と江戸城に遠慮して、小さ目の天守である「御三階櫓」しか造らなかったためです。
二重櫓跡に建つ立派な鐘楼は、往時と比べると随分と立派な造りに変えられました。御三階櫓を作り直す時にはもっと小さ目の鐘楼でした。その鐘楼は明治初期に競売で、「かねつき堂」という行田名物「ゼリーフライ」を売っているお店の休憩所代わりになって残っています。
秀吉の天下統一の総仕上げとなった「小田原征伐」の戦いの中で、唯一落とせなかった忍城攻め。その中の象徴的な戦いがこの「石田堤」でした。秀吉が備中高松城で行った水攻めを、地形の似ていたこの忍城でも取り入れた石田三成。その跡を現在に残している場所をご紹介したのが今回の記事です。
その石田堤は所々にしか残っていませんが、確かに戦国武将が己の存亡をかけて、戦った歴史の跡が残っています。
近隣には自然も沢山残り、丁度いいお散歩コースです。今度のお休みにでもお出掛けしてみませんか。
2019年9月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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