織田信長の出世城! 愛知県清須市の「清洲城」から辿る戦国探訪の旅

織田信長の出世城! 愛知県清須市の「清洲城」から辿る戦国探訪の旅

更新日:2019/02/20 15:54

後藤 徹雄のプロフィール写真 後藤 徹雄 フォトグラファー
東海道新幹線で名古屋から数キロメートル西を走行中、車窓から美しい城が視界に飛び込んでくる。名古屋市に隣接する清須市の「清洲城」である。清洲城は尾張平野の要衝にあり、戦国時代には守護代織田家の居城だった。若き織田信長が歴史に大きな一歩を刻んだ桶狭間の戦いへ、この城から出陣した。信長の出発点とも言える清洲城から、戦国史を辿る旅に出てみよう!(「きよす」には古くから清洲と清須、両方の表記が使われる)

清洲城跡にそびえる天守を仰ぎ見る

清洲城跡にそびえる天守を仰ぎ見る

写真:後藤 徹雄

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遠目にも人の視線を引きつける天守は、その城と町の象徴である。ここ清洲城跡にも堂々とした天守が建っている。三重四階の望楼型で、最上階の廻り縁から城下を一望することができる。外壁は漆喰と下見板の白黒対比が美しく、屋根には金の鯱、軒丸瓦に織田木瓜紋をあしらった、まさに尾張織田家を象徴する天守となっている。

これは平成元年(1989年)に「清州城天主閣(天主と表記)」として再建された、鉄筋コンクリート造りの建造物で、内部は歴史資料館となっている。
信長の次男織田信雄が城主だった時代(1586年頃)に城は大改修され、三重の堀や大小の天守も造営された。しかし、天守の構造については、図面等の史料が残っていないため、再建に当たっては桃山時代の城郭建築を参考にして設計された。信長の時代には存在しなかった想像上の城である。

しかし、永禄3年 (1560年)織田信長が奇跡的勝利を収め、歴史に大きな一歩を刻んだ桶狭間の戦いに向け、ここ清洲から出陣したこと。そして二十二年の後、夢半ばにして本能寺に斃れるまでの波乱の後半生を想う時、目の前にそびえる清洲城天守ほど私達の想像を膨らませ、心を飛翔させる城はない!

清洲城跡にそびえる天守を仰ぎ見る

写真:後藤 徹雄

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五条川越しに見る天守(資料館)、大手門、御殿(芸能文化館)。
赤い欄干の大手橋を渡って大手門より城内へ。

清洲城跡にそびえる天守を仰ぎ見る

写真:後藤 徹雄

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発掘された本丸南側、野面積みの石垣。
平成八年の河川事業に伴う遺跡調査により、五条川右岸で発見されたもので、天守の対岸、清州古城跡に設置されている。

<清洲城跡の基本情報>
住所:愛知県清須市清洲古城448番地
アクセス:新清洲駅より徒歩で約15分、清洲駅より徒歩で約20分

若き日の信長を想いながら歩く 清洲公園

若き日の信長を想いながら歩く 清洲公園

写真:後藤 徹雄

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五条川の対岸は清州古城跡公園、さらに新幹線の線路を挟んで南側の一帯が清州公園として整備され、市民憩いの場となっている。この桜とツツジの名所に織田信長と濃姫の像が建っている。濃姫は通称であり、信長正室と伝わるが、その生涯については不明な点も多い。しかし、ここ清州公園では、信長像に寄り添うように立つ濃姫の姿に心動かされる。
若き信長が見つめていた未来とはなんだったのか、そして歴史のもしもを考えてみるのも一興である。

若き日の信長を想いながら歩く 清洲公園

写真:後藤 徹雄

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「信長公出陣の像」
永禄3年5月19日、27歳の信長が、ここ清洲城より桶狭間へ向け出陣した姿を再現した像。首に掛けた数珠を手に桶狭間の方向を見据えている。甲冑も精緻に表現されていて、数ある戦国武将像の中でも特に人気の高い作品である。

清洲城一帯は桜の名所 開花期には「清洲城桜祭り」も開催!

清洲城一帯は桜の名所 開花期には「清洲城桜祭り」も開催!

写真:後藤 徹雄

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清洲城、五条川、清洲公園は桜の名所としても知られている。3月中旬頃から彼岸桜、下旬にはソメイヨシノが開花。清洲城桜祭りには屋台も出て多くの花見客で賑わう。清洲城のライトアップと川沿いの街灯で照らし出される夜桜見物も人気だ。

清洲城一帯は桜の名所 開花期には「清洲城桜祭り」も開催!

写真:後藤 徹雄

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清州古城跡公園はかつての清洲城が実際に建っていた場所に当たる。天守台跡には信長を祀った社が立ち、散歩の途中にお参りする地元の人を見かける。
命日の6月2日には信長を偲び「織田信長公顕彰祭」が行なわれる。

清洲城一帯は桜の名所 開花期には「清洲城桜祭り」も開催!

写真:後藤 徹雄

五条川沿いの桜並木。

<清州公園・清州古城跡公園の基本情報>
住所:愛知県清須市清洲古城448
アクセス:新清洲駅より徒歩で約15分、清洲駅より徒歩で約20分

名古屋城に移築されたという清洲城天守「清州櫓」も見ておきたい

名古屋城に移築されたという清洲城天守「清州櫓」も見ておきたい

写真:後藤 徹雄

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本能寺の変の後、信長の後継者を決める重要な会議がこの清洲城で開かれた。世にいう「清州会議」である。その後、豊臣秀吉が天下を統一。さらに秀吉が世を去ると、関ヶ原の合戦に勝ち、天下人となった徳川家康は豊臣家への対抗措置として次々と城を築いた。中でも慶長15年(1610年)、名古屋城築城の際は清洲から名古屋へ城下ごとそっくり移転させた。これを「清洲越し」という。

名古屋城築城には廃城となった清洲城の建物が移されたり、石垣や古材が転用されたりした。現在、名古屋城の御深井丸に残る西北隅櫓は、清州城の小天守を移築したものと伝わり「清州櫓」の別名を持つ。清洲城と名古屋城の距離は約6km、併せて見ておきたい遺構である。

戦国武将では常に人気・知名度ナンバーワンの織田信長!その足取りをここ清洲城から。

本丸御殿の復元や天守の再建計画で盛り上がる名古屋城を訪れる予定があれば、是非この清洲の地まで足を延ばして頂きたい。「清洲越し」と言われた移転は距離にして6kmほどだ。JR東海道本線で名古屋から二駅である。ここから信長の次の居城「小牧山城」さらに「岐阜城」「安土城」と辿ればまさに信長の生涯を辿る旅となる。そんな視点の旅もいい。その第一歩として清洲城をお勧めしたいのである。

2019年2月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。

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