この達谷窟は、別当・達谷西光寺(たっこくせいこうじ)にあります。お寺なのに鳥居があり毘沙門堂は神域で、達谷西光寺境内とは厳格に区別されていました。別当は毘沙門天に仕えるのが勤めとされたため、檀家が一軒もなく葬式をしないという珍しいお寺。
お寺に伝わる「毘沙門堂達谷窟縁起」によりますと、以下のような由来があります。
約1200年も昔、この地に悪路王・赤頭・高丸などとと呼ばれる蝦夷(この頃の朝廷の人達が東北の人を指した呼び方)が、この窟に塞を構え乱暴な振舞いでこの地の良民を苦しめていました。国府も抑えることができず、時の天皇・桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、蝦夷征伐の勅令を下します。悪路王達は3000の兵を率いて駿河国清美関まで進みましたが、坂上田村麻呂が京を出発した知らせを聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守りを固めました。延暦20年(801年)、坂上田村麻呂は窟に籠る悪路王等と戦い、激戦の上これを打ち破り首を刎ね、蝦夷を平定。
坂上田村麻呂は戦勝は毘沙門天のご加護と感じ、そのお礼にと清水寺を真似た舞台造りのお堂を建て、108体の毘沙門天を祀り国を鎮める祈願所として「窟毘沙門堂」と名付けました。
この「悪路王」というのは、当時この地の軍事指導者だった「アテルイ」だとする説があります。アテルイは延暦8年(789年)、現在の岩手県奥州市付近に侵攻した朝廷軍を撃退しましたが、後坂上田村麻呂に敗れ処刑されました。
縁起を否定するつもりはありませんが、この頃は侵攻を正当化するために、相手方を悪者にすることがあったようですので、その分割り引いて考えて良いと思います。
アクセス
電車:JR東北本線平泉駅よりタクシー
車:東北自動車道 一関IC〜R342号〜県道31号経由、約8km
この達谷窟毘沙門堂は当初は108体もの毘沙門天を祀り「現世に毘沙門天を拝めば、災いに遭うことなし」と言われたほどでしたが、度重なる火災にあい、残念ながら当時の毘沙門天は残っていません。
現在のお堂は5代目で昭和36年に再建されたもの。お堂の中には様々な時代の毘沙門天が30体ほど立ち並び、伊達正宗から寄進された厨子に、秘仏の吉祥天と善膩子(ぜんにし)童子を納めています。
しんと静まり返った薄暗い堂内の山側の壁は、真鏡山の岩肌。堂内に漂う圧倒されるような気は、真鏡山の持つ気か、立ち並ぶ毘沙門天からか…あるいはその両方かもしれません。
この床下はかつては落ち武者らが身を隠し心を入れ替えた「再生の場所」であり、ご先祖様の霊があの世から戻ってきて集う神聖な場所。そのことからパワースポットとなっていますが、現在は人が立ち入ることは禁じられています。
金堂(上の写真)は古くは講堂と呼ばれ、達谷西光寺の根本道場になります。延暦21年(802年)、達谷川対岸の谷地田に建立されましたが延徳2年(1490年)の大火で焼失。
その後は現在の場所に建てられた客殿がその役割をしていましたが、明治の廃仏毀釈にあい破棄されてしまいます。
現在の建物は平成8年に完成したもので、ご本尊の薬師如来は真鏡山上のご神木で造られました。
昔の工法を駆使した造りなので、この達谷窟に相応しい見事な金堂になっています。
姫待不動堂は、智証大師が達谷西光寺の飛地境内であった「姫待滝」の本尊として不動明王を祀ったのが起こり。「姫待ちの滝」は悪路王が都からさらってきた姫君を、達谷川上流の「籠姫」に閉じ込め、逃げようとする姫君を待ち伏せしたとされる滝のことです。
しかし堂宇の腐朽が激しかったため、寛政元年(1789年)この地に移されました。不動明王像は桂材の一木彫で平安後期の作と考えられています。
昭和21年隣家から出火し西風にあおられた火は、毘沙門堂や辨天堂に燃え移りましたが、不動堂は西側にある奉行坊杉に守られ類焼を免れました。火の神である不動明王が、奉行坊杉に降りた為だとか…。そんな不動明王の霊験と歳月を感じる、趣のある小さな茅葺のお堂です。
毘沙門堂の西方にあって、高さおよそ30mにもなる岸壁に刻まれた16.5mの磨崖仏。北限の磨崖仏で、全国の五大磨崖仏のひとつに数えられています。
前九年・後三年の役で亡くなった敵味方の霊を供養するために、陸奥守源義家が馬上より弓筈(ゆはず・弓の両端の弦をかける部分)で彫ったものだとか…。大日如来とも阿弥陀如来とも言われていますが、古碑には阿弥陀如来を表す「キリーク」の記号が刻まれていること、磨崖仏に対し、昔から阿弥陀如来の名号を唱えていることから、達谷西光寺では阿弥陀如来としています。
明治29年に胸から下は崩落して無くなってしまいました。そのため現在は「岩面大仏」と呼ばれています。
亡くなった人の死後の幸せを願う気持ちが、穏やかな表情から感じ取れ、毘沙門堂のある場所が現世・この磨崖仏のある場所が来世を表しているのかも知れません。
※前九年・後三年の役
共に平安後期の戦で、奥州を舞台とした戦。
前九年役:永承6年〜康平5年(1051年〜1062年)、朝廷方・源頼家と陸奥国の豪族・安倍氏の戦い。
後三年役:永保3年〜寛治元年(1083年〜1087年)、朝廷方・源義家と前九年の役の後、力を持った清原氏の戦い。奥州藤原氏が登場するきっかけとなる。
金運UPのパワースポットとなっているのは、毘沙門堂の前にある蝦蟆ヶ池(がまがいけ)辨天堂。この蝦蟆ヶ池は神の池とされていて、古来からこの池に棲むものは辨天様のお使いであるとして殺生が禁じられ、特に蛇は大事にされています。そしてこの辨天堂にも以下のような縁起が伝わっています。
その昔、達谷川や北上川に美しい浮島が行き来していました。しかしこれは五色の蝦蟆の姿をした、貧乏をもたらす貪欲神が化けていたもの。折よくこの地を巡礼していた慈覚大師がそのことに気づき、島を捕えこの毘沙門堂の前に持ってきて逃げないようにお堂を建てます。さらに蝦蟆を降伏する白蛇=宇賀神王を頭に頂いた、八臂辨財天を自ら刻んで祀り、蝦蟆ヶ池辨財天と名付けました。
年代は記されていませんが、慈覚大師が天長6年〜9年(829〜832年)に東国巡礼の旅にでていることから、その頃の話と思われます。
辨天様は言わずとしれた金運商売の神様。貪欲神を降伏した上に建っているとなればなおさらご利益がありそうです。お財布で「ガマ口財布」がありますが、この池の由来も「蝦蟆」なのは偶然なのでしょうか…。
また辨天様は嫉妬の強い女性なので縁を切りたい方にはお勧めですが、仲の良いカップルが来たり、縁結びを願うと逆に縁が切れてしまうので注意しましょう。
この達谷窟毘沙門堂は、同じく平泉にある有名な中尊寺よりも歴史が深く、「再生」や「金運UP」「縁切り」と、「今を変えたい!」という時にぴったりのパワースポットです。
平安時代の奥州藤原3代よりも前の時代…神話のような話が伝わる達谷西光寺を、訪れてみてはいかがでしょうか。
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(2024/12/14更新)
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