函館五稜郭から一本木関門まで!新選組副長・土方歳三最後の日

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函館五稜郭から一本木関門まで!新選組副長・土方歳三最後の日

函館五稜郭から一本木関門まで!新選組副長・土方歳三最後の日

更新日:2019/04/16 13:31

大里 康正のプロフィール写真 大里 康正 旅する写真家、タイと台湾に詳しい旅作家

幕末のヒーローは数多くいますが、中でも異彩を放つのが新選組の土方歳三。京都では鬼の副長として組織をまとめ、その後各地を転戦。北海道に渡り榎本武揚等と独立政府を目指すも、明治2年5月11日に函館弁天岬台場に向う途中、一本木関門付近で戦死しています。

土方の足跡を辿る観光では、五稜郭を出て一本木関門まで進みますが、道中の中島親子最後之碑にも立ち寄り、幕末の激動を体感してみてはいかがでしょうか。

土方歳三が出陣した函館五稜郭

土方歳三が出陣した函館五稜郭

写真:大里 康正

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幕末を語る上で外すことが出来ない組織。それが新選組ですが、「新撰組」と書かれることもあります。実は日本の歴史では幕末の頃まで、どの漢字を使うかに重きは置かれておらず、当て字を使うことが多かったのです。局長の近藤勇の書簡でも、選と撰の両方が使われています。この記事は、一般的に使われることが多い新選組で進めます。

日本国内での大きな戦争は、幕末の戊辰戦争(旧暦 慶応4年1月3日 - 明治2年5月18日)が知られています。旧幕府軍は、薩摩・長州を中心とした新政府軍の攻撃で劣勢となり、関東から東北にかけて旧幕府側であった様々な藩が降伏していきます。そこで土方歳三は、最後の可能性にかけて榎本武揚等とともに北海道に渡るのです。

土方の知名度は新選組時代から高く、すぐに陸軍奉行並という地位になっています。そして土方が統率した部隊は、やがて北海道に上陸した新政府軍との戦いで唯一無敗を誇り続けました。

土方歳三が出陣した函館五稜郭

写真:大里 康正

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土方歳三最後の日となる明治2年5月11日の午前3時頃、函館山から市街地に向けて新政府軍による砲撃が開始されました。

砲撃から約2時間が過ぎた午前5時頃のこと。土方歳三はわずか50人を引き連れて、弁天岬台場に孤立状態となっている新選組時代の部下の島田魁等を救出するため、五稜郭から出陣するのです。

土方歳三が出陣した函館五稜郭

写真:大里 康正

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蝦夷共和国を目指した旧幕府軍が立てこもった五稜郭。現在は函館の中でも有名な観光地として、国内だけでは無く海外からも多くの観光客が訪れます。

ここで生死をかけた軍議が開かれていたことは、今の穏やかな雰囲気からはかけ離れたものがあります。それでも当時の面影を残す石垣や濠を眺め、時代を感じてみてはいかがでしょうか。

なお、土方歳三(35歳)の亡骸は、この五稜郭に埋葬されているとも言われています。

<基本情報>
住所:北海道函館市五稜郭町44
電話番号:0138-51-4785
アクセス:市営電車停留所「五稜郭公園前」下車、徒歩約18分。函館駅前発着「五稜郭タワーシャトルバス」五稜郭タワー前にて下車、徒歩約3分

土方歳三最後の地碑はJR函館駅方向に進む

土方歳三最後の地碑はJR函館駅方向に進む

写真:大里 康正

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五稜郭を出て土方歳三最後の地碑までは、JR函館駅方向に進むことになります。駅までは直線距離で3km強と遠くはありません。なお、土方歳三がどのルートを通ったかという詳細は分かりませんが、昔からある道が現在も使われていることは多いのです。

確実なことは、石碑がある一本木関門方向に進んだということです。目的は味方の救出ですから、出来るだけ最短ルートを選んだことでしょう。

中島三郎助父子最後之地

中島三郎助父子最後之地

写真:大里 康正

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JR函館駅方向に進む途中で、足を止めておきたい場所があります。函館税務署近くで、五稜郭からは約1.2kmの距離にあるのが「中島三郎助父子最後之地」です。碑は信号がある三差路の中にありますので、車両には注意をして下さい。

中島三郎助父子最後之地

写真:大里 康正

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中島三郎助(旧暦 文政4年1月25日-明治2年5月16日)は、土方歳三と五稜郭内で何度も軍議を重ねていました。そして中島は土方同様に徹底抗戦を主張していたのです。5月11日の土方戦死後、函館市街地がほぼ新政府軍に占領され、降伏勧告が出されます。

それを受け入れようという榎本等に対し中島親子は出陣し、この地で戦死しているのです。武士の面目を貫き、降伏しなかった中島三郎助父子最後の場所。長男の恒太郎、次男の英次郎を含め親子で散っていった壮絶な人生への哀悼として、今でも献花が絶えません。なお、中島は吉田松陰、木戸孝允、福沢諭吉等とも交流があった人物です。

<基本情報>
住所:北海道函館市中島町38
アクセス:五稜郭からは約1.2km

土方歳三最後の地碑

土方歳三最後の地碑

写真:大里 康正

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中島三郎助父子最後之地碑から約1.5kmで、「土方歳三最後の地碑」となります。場所は八幡通の右手「若松緑地公園」内です。

土方歳三最後の地碑

写真:大里 康正

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当時この付近は一本木関門と呼ばれ、函館市街地からは外れとなる場所。ここで旧幕府は通行税を徴収していたのです。現在は若松町であり、JR函館駅から徒歩15分程度の距離であることからも観光には便利な場所ですので、駅から散策するのもよいでしょう。

土方歳三の最後は遺体が見つかっていないことからも謎が多いとされますが、味方の救出を目的として五稜郭を出て、一本木関門付近まで来ていることは証言が残されています。土方は馬上で「逃げる者は切る」と自軍の指揮を執っていました。

「その激闘、古今に類無し」と言われ、圧倒的な武器の差もあった新政府軍との戦闘の中、土方は腹部(腰間)に銃弾を受け落馬。最初に駆け寄ったのは、局長近藤勇の従僕であった沢忠助、新選組の馬術師範だった安富才助(才介)という書簡が残されています。しかし新選組時代からの部下が最後を見たのであれば、なぜ遺体が見つからないのかという疑問が出てきます。

不自然な理由の一つに、実は後方から味方に狙撃されたからでは、というものがあります。榎本軍は降伏をしたいにも関わらず、徹底抗戦を叫ぶ土方が邪魔に・・・。だからこそ不自然な弾痕を隠すため、早々に遺体を近くに埋葬してしまったというのです。

土方歳三最後の地碑

写真:大里 康正

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他の説では、敵弾に斃れた土方歳三の遺体が敵軍に見つかれば、どのような辱めを受けるか分からないということから早急に遺体を隠すため近くに埋葬されたというものがあります。やがて函館は新政府軍の指揮下になるのですから、後から掘り起こすことは出来ず、同時に埋葬場所は誰も語らなかったというのです。五稜郭埋葬説は、激戦の最中に遺体を運ぶことは困難であったはず、とも言われます。

京都時代の土方歳三は、組織をまとめるために何よりも規律を重んじ、時に隊士への切腹を命じたことから鬼の副長として知られていました。その後、旧幕府軍として転戦するうちに、厳しさだけではない組織のまとめ方で統率するようになり、多くの人から慕われています。

五稜郭に陣取った旧幕府軍の幹部8人の中で、ただ一人戦死した土方歳三。献花が絶えない「土方歳三最後の地碑」の前で、どのようなことが感じられるでしょうか。

<基本情報>
住所:北海道函館市若松町33-6 総合福祉センター前緑地
アクセス:五稜郭からは約2.7km

土方歳三最後の地とその他の観光地

幕末にその名を轟かした新選組副長・土方歳三の最後の日に思いをはせながら函館を歩く。特に5月は土方歳三に関係するイベントも多いため、更に充実した観光となることでしょう。

最後に、函館の他に札幌や小樽も有名な観光地。その魅力を紹介するため下記の関連MEMOにリンク設定しています。ぜひ、旅行の参考にしてみて下さい。

2019年4月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2018/07/11 訪問

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