写真:澁澤 りべか
地図を見る小高い丘の上にある明治大学生田キャンパス。その南端にコンクリートの平屋の建物があります。これが「登戸研究所資料館」です。入口付近には古い井戸や意味ありげに植えられた楮(こうぞ)の木。
通称「登戸研究所」正式名称「第九陸軍技術研究所」は、1919年に創設された「陸軍科学研究所」に付属する「登戸実験場」として、日中戦争が始まった1937年に開設されました。
終戦後は米軍の接収や他大学による利用をへて、1951年に明治大学農学部がここに移転。2010年、唯一残っていた建物をかつての姿に戻し資料館としてオープン。この建物は当時、生物兵器(植物を枯らすための細菌兵器)を開発する第二科が使用していました。731部隊などとも関係の深い部署です。
写真:澁澤 りべか
地図を見る入口正面は映像コーナー。その奥には陸軍の敷地であることを示す境界石が展示されており、上部には他より少し大きめの球形の電灯があります。これだけは当時のままのオリジナルの電灯です。
展示室は左右に計5つ。最初の第1展示室では研究所が誕生した時代背景や目的、陸軍内での位置づけ、運営体制や成長過程などが説明されます。
最盛期の登戸研究所は、敷地面積が現在の生田キャンパスの倍以上となる約11万坪。100棟以上の施設が建ち並び、総勢1000名を超える研究員が働いていました。
写真:澁澤 りべか
地図を見る秘密戦の柱となるのは防諜、諜報、謀略、宣伝の4つ。この研究所では電波兵器、無線機器、毒物や化学兵器の研究、偽札づくり、そしてアメリカ本土を攻撃するための最終兵器の開発が行われていました。
最終兵器となる新型爆弾、それが風船爆弾です(模型は10分の1)。和紙をこんにゃく糊で貼りあわせて作った風船の直径は約10m。この風船に水素ガスを充填し爆弾や焼夷弾を搭載して、約9000q離れたアメリカ本土を攻撃するべく開発されました。
実際に1944年から翌年にかけて約9300発が放たれ、うち1000発以上がアメリカに着弾したと推定されます。実のところ、爆弾ではなく牛疫ウィルスを散布してアメリカ人の食卓に欠かせない肉牛を殺傷するのが開発の真の目的でしたが、実行はされませんでした。
写真:澁澤 りべか
地図を見る太平洋戦争と並行して戦われた日中戦争では、中国(蒋介石政権下の中華民国)に経済的混乱を引き起こすため、日本軍による偽札製造が行われました。
第4展示室ではその製造工程や狙いについて解説するとともに、偽札印刷工場だった5号棟(2011年解体)とその保管所だった26号棟(2009年解体)の模型、さらにその建材の一部を展示。
広い空間を確保するため、三角屋根のトラス構造になっていたことがよくわかります。当時ここで製造された偽札も見ることができます。
1941年、日本軍は香港を占領し紙幣の印刷工場を接収します。印刷機や原版を手に入れた日本は、いわば「本物の偽札」を作れるようになりました。
写真:澁澤 りべか
地図を見るこの資料館の中には暗室が残されています。しかもこの暗室は迷路のようなクランク式の暗室です。カーテンや扉を使うことなく、両手がふさがっていても入ることができるよう設計されています。
真っ暗体験がしてみたい人は、資料館のスタッフに声をかけて、中の電気を消してもらってください。
写真:澁澤 りべか
地図を見る暗室だけでなく、どの部屋にも流し台があり水道がひかれています。中には用途不明なこんな蛇口も・・・。ぜひ探してみてください。戸口の意外と高い位置にありますよ。
最後の第5展示室では「軍事秘密」と刻印された濾過筒の実物に触ることができます。また敗戦後の登戸研究所の歴史について紹介されています。
写真:澁澤 りべか
地図を見る資料館の見学後は、入館時にもらった地図を見ながらキャンパス内にある登戸研究所の史跡を探してみましょう。
まずは資料館の裏手に、薬品庫と推定される倉庫があります。
図書館に向かう途中、右手に5号棟、26号棟を解体した広い跡地が。
この2つの棟にはさまれた、まっすぐ南北に延びる道路も当時からあり、5号棟で製造し26号棟に保管していた偽札を搬出する経路だったと考えられます。
写真は図書館の前にある当時の消火栓です。同じものが学生食堂の入口にもあります。
写真:澁澤 りべか
地図を見る巨大なヒマラヤ杉の並木を過ぎ、正門近くへ。そこに「動物慰霊碑」があります。現在もそのまま明大農学部が実験動物の慰霊碑として活用していますが、戦時中は本当に実験「動物」のためだったのでしょうか・・・。
写真:澁澤 りべか
地図を見る最後は弥心神社(現在は生田神社)にお参りしましょう。ここには智恵の神とともに、研究中の事故による殉職者が祭られています。境内には研究所職員によって1988年(昭和63年)に建立された碑があり、その裏面に「すぎし日は この丘に立ち めぐり逢う」と刻まれています。
秘密の任務に携わっていた研究員たちは終戦後、互いに顔を合わせても挨拶すらせず、戦時中に何をしていたかを家族に話すことも出来なかった・・・。しかし昭和が終わろうとするとき、この碑を建て、研究所の存在を明らかにし、墓場まで持っていくつもりだった体験を語り始めたのでした。
住所:神奈川県川崎市多摩区東三田1-1-1
電話番号:044-934-7993
アクセス:小田急線「生田」駅、南口より徒歩約15分
※無料のガイドツアーを1名から予約可能。団体予約も可能。事前に資料館にお問合せください。ガイドツアーのご利用をぜひおすすめします。
2019年4月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2024/10/8更新)
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