写真:木村 岳人
地図を見る成相山の中腹に位置する成相寺へと上がる参詣道は複数存在しますが、それらの中で最も古くから利用されていたと考えられているのが成相本坂道です。
その道筋は府中地区の中心部に位置する「籠(この)神社」から500mほど西に行った中野集落から始まっており、入口には地蔵尊が刻まれた丁石(目的地までの距離を示す、今でいうキロポスト)が置かれています。成相寺の丁石は江戸時代初期の寛永18年(1641年)に整備されたもので、一丁(約109m)ごとに計16基の丁石が置かれています。
写真:木村 岳人
地図を見る一丁目の丁石から緩やかな舗装路を上っていくと、程なくして五枚の板碑に差し掛かります。これらは成相本坂道の道中にあったものを下ろしたと伝わっており、最も古いものは貞和4年(1348年)と南北朝時代にまで遡るというから驚きです。それだけ古くから人々が歩いてきた古道であるという証左ですね。
写真:木村 岳人
地図を見る道なりに進んでいくと大きなフェンスに行く手を阻まれますが、これは動物除けの柵であり、立ち入り禁止というわけではありませんのでご安心を。動物が里へと入り込まないよう、通行後には必ず閉めてカンヌキを掛け直すようにしましょう。ここから成相本坂道は未舗装路となり、いよいよ本格的な登山道が始まります。
写真:木村 岳人
地図を見る成相寺までの距離は約1.8km、ゆっくり歩いても約50分のトレッキングコースです。それほど険しい道ではありませんが、登山には違いありませんので油断は禁物です。動きやすい服装、滑りにくい靴、軍手を用意して挑みましょう。
写真:木村 岳人
地図を見る成相本坂道はかつて成相寺の表参道として数多くの人々が行き交っていましたが、近代に入りケーブルカーや車道が通されてからは歩く人が激減しました。使われなくなった登山道は自然に任せるがままに荒廃し、歴史の中に埋もれていったのです。
20年ほど前に一度は整備されたものの、その後の台風による倒木などの理由によって長らく通行不能となっていました。それを憂いた地元の方々により2017年に再整備がなされ、再び歩くことができるようになったのです。
写真:木村 岳人
地図を見るその道中には所々に丁石や石仏が置かれており、参詣者で賑わっていた往時の面影が今もなお残っています。道の歴史を体感しつつ、一歩一歩進んでいきましょう。
写真:木村 岳人
地図を見る成相本坂道の中ほどには休憩所を兼ねた「益軒観展望所」が設けられており、ここから眺める天橋立は必見です。
写真:木村 岳人
地図を見る江戸時代前期の元禄2年(1689年)に儒学者の貝原益軒(かいばらえっけん)が著した天橋立の旅行記『己巳紀行(きしきこう)』によると、府中から成相寺へ登る坂の途中で天橋立を眺め、その様子を「其景言語ヲ絶ス、日本の三景の一とするも宜也」と記しています。すなわち、貝原益軒が日本三景のひとつと賞した天橋立は、かつての表参道にあたるこの成相本坂道からの眺めなのです。
文献上に「日本三景」という言葉が見られるのは『己巳紀行』が初出であり、以降、天橋立は日本三景のひとつとして全国的に知られるようになりました。今でこそ傘松公園をはじめ天橋立を眺められる展望台は複数存在しますが、この益軒観展望所はその元祖であるといえるでしょう。
写真:木村 岳人
地図を見る登山道を上り終えると傘松公園からの車道と合流し、尾根沿いの緩やかな舗装路を進んでいくと成相寺の山門に到着します。
成相寺の創建は飛鳥時代の慶雲元年(704年)と伝わっており、平安時代には既に修験道の道場として広く知られていました。元の境内は現在地よりも山の上部に位置していましたが、室町時代の応永7年(1400年)に起きた山崩れによって現在地に移されており、雪舟の『天橋立図』にも今と同じ配置で本堂と五重塔が描かれています。
写真:木村 岳人
地図を見る現存する本堂は江戸時代後期の安永3年(1774年)に再建されたものですが、古式に則って建てられており貫禄があります。その左手前方には鎌倉時代の正応3年(1290年)の銘がある鉄湯舟(重要文化財)が手水鉢として再利用されているなど、至る所に古刹らしい歴史の風情が感じられます。
住所:京都府宮津市中野
アクセス:京都丹後鉄道宮豊線「天橋立駅」から丹後海陸交通バス「伊根線」で約25分、「中野本坂」バス停下車、徒歩約3分
2019年3月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2024/3/29更新)
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