写真:土庄 雄平
地図を見る長崎県から西彼杵(にしそのぎ)半島を沿岸沿いに進むと、今回紹介する旧外海町にたどり着きます。現在は、長崎市から国道202号線が走っていますが、その道路が敷かれるまでは船での移動を余儀なくされるほどアップダウンに富んだ地であり、その地形こそキリシタンが潜伏するのに適していたと言われています。
写真:土庄 雄平
地図を見るそれを実感できるのは、旧外海町の中心部にある「大城公園」です。「道の駅 夕日の丘そとめ」から少し上がった先にある360度のパノラマの展望台から断崖と起伏に富んだ外海一帯の地形を望むことができ、その険しさが伝わってくるでしょう。
<大城公園の基本情報>
住所:長崎県長崎市東出津町
アクセス:「道の駅 夕日の丘そとめ」から徒歩15分
近年の研究から、旧外海町の中でもキリシタンの動きはバラツキがあったことが明らかになっています。実は江戸時代、旧外海町は肥前大村藩と佐賀深堀藩の領地に分かれており、前者では仏教式の墓、後者ではキリスト教式の墓が残っています。これは各藩のキリスト教に対する姿勢の違いを表していると考えられています。肥前大村藩の領地から、たくさんのキリシタンが五島列島などへ移住したこともそれを示しているでしょう。
写真:土庄 雄平
地図を見る「垣内墓地」があるのは佐賀深堀藩の飛び地と言われる場所で、肥前大村藩の領地の中に小島のように浮かぶ場所です。ここでは、キリスト教式の墓の特徴である長方形の積石墓が整然と並んでいます。江戸時代の地図と照合されており、潜伏時代からキリシタンが墓を営んでいたと考えられる場所です。静寂かつどこか不思議な空気の漂うこの空間で、キリシタンを感じてみませんか?
<垣内キリシタン墓地の基本情報>
住所:長崎県長崎市多以良町2573
アクセス:「道の駅 夕日の丘そとめ」から車で20分、長崎市から車で30分。広場になっている場所から長い階段を上ると徒歩5分ほど
写真:土庄 雄平
地図を見る禁教令により、旧外海地区の神父がすべて追放されたあと、洗礼名「バスチャン」という日本人伝道者が潜伏キリシタンを指導したと伝承されており、山奥にはバスチャンが追っ手から逃れて暮らしたと言われる屋敷跡が残っています。実際にその場所へ行ってみると、凄まじく山奥にあることに驚くでしょう!人影は皆無で、とてもひっそりしています。
写真:土庄 雄平
地図を見るこの空間の前に立ち尽くせば、禁教下でも信仰生活を守り抜き、強く生きたバスチャンの像が思い起こされますね!外海のキリシタン史跡には、このようなキリシタンの力強さを伝えてくれるものが数多く残っています。
<バスチャンの屋敷跡の基本情報>
住所:長崎県長崎市新牧野町1397-1
アクセス:「道の駅 夕日の丘そとめ」から車で10分
写真:土庄 雄平
地図を見る禁教時代に、外海黒崎地区の潜伏キリシタンが信仰を維持する拠り所としたと言われる場所が「枯松神社」です。旧外海町の枯松地区の山上に位置し、人里からやや離れたこの神社には、バスチャンに教えを授けた宣教師サン・ジワンが祀られ、今でも多くの元潜伏キリシタンの人がこの地を訪れます。
写真:土庄 雄平
地図を見る神社近くにある「祈りの岩」と呼ばれる巨石の下に隠れて、「オラショ」と呼ばれる潜伏キリシタンの口頭伝承が受け継がれてきました。まさに旧外海の潜伏キリシタンの聖地と言われる場所です。
写真:土庄 雄平
地図を見る社の付近にはいくつかお墓があり、その中には白い石が置かれたお墓があります。実は、お参りの際だけ石を並べて十字架の形をつくり、帰る際に崩すのです。厳しい禁教時代に、自らの信仰を守るために生まれた適応の形と言えるでしょう。
<枯松神社の基本情報>
住所:長崎県長崎市下黒崎町295
アクセス:「道の駅 夕日の丘そとめ」から車で7〜8分
教科書的な潜伏キリシタン史では、禁教令をはじめとした幕府の禁教政策や、島原天草一揆などの度重なる弾圧や摘発など、悲劇的な側面に焦点が当たることが多いですが、実は外海に残っている潜伏キリシタンの軌跡を辿ると全く違う像が浮かび上がってきます。
それは厳しい禁教下でも、自らの信仰を守り抜くために懸命に生き抜き、適応してきたキリシタンの力強い姿です。長崎県旧外海町を訪れる際には、世界遺産の教会群のみならず、前述したスポットも訪れてみてください!きっとキリシタンのまた新しい側面が見えてくることでしょう。
2019年5月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2024/3/19更新)
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