写真:乾口 達司
地図を見る羽柴秀吉が播磨国に進出してきたのは、1577年(天正5)。西播磨の拠点・上月城などを攻略し、播磨国はまたたくまに平定されました。ところが、翌年、それまで秀吉に協力してきた三木城主・別所長治が、突如、離反。織田方と対立する毛利方に寝返ります。それに呼応して播磨の諸勢力が次々と寝返り、秀吉の優勢は一挙に後退してしまいました。
このエピソードからは、長治の発言力がいかに大きかったかがうかがえますが、それもそのはず。別所氏は、播磨国の守護大名として君臨してきた赤松氏の流れをくむ名門氏族であり、応仁の乱の後は主家をしのぐほどの勢力を築きあげていたのです。
写真は三木城内に建立されている長治の騎馬像。このような立派な石像が建立されていることからも、地元民がいまでも長治や別所氏をいかに崇敬しているかがうかがえますね。
写真:乾口 達司
地図を見るその長治が主として君臨していた三木城が、こちら。
三木城は美嚢川のほとりに築城されており、複数の街道が交差し、水運業も発達していた物流の集積地・三木の地を掌握するのに絶好の位置にあったことが、ここからもおわかりいただけるでしょう。
写真:乾口 達司
地図を見る秀吉はこの三木城を力づくで攻めるようなことはせず、城の周辺を包囲し、外部からの補給を断つ作戦に出ました。その結果、三木城は、後世、「三木の干殺し」と呼ばれるほどに壮絶な兵糧攻めにあいますが、先ほどの写真をご覧になると、秀吉が攻略に苦労するほどの堅牢なお城には見えないと感じる方も多いのではないでしょうか。
しかし、城下と本丸との高低差は20メートルほどあり、下からは非常に攻めづらいお城であったことがわかります。
写真:乾口 達司
地図を見る三木城の規模は見た目と違って広大!本丸と二の丸を中心として、周辺には複数の出城、要害、曲輪などが点在し、その規模は東西約600メートル、南北約700メートルにおよびます。
秀吉が敢えて力でねじ伏せようとしなかったことも頷けますね。
写真:乾口 達司
地図を見る本丸跡からの眺めはこちら。美嚢川の手前に広がる街並み一帯も、かつては三木城の城域にふくまれていました。
<三木城跡の基本情報>
住所:兵庫県三木市上の丸町5
アクセス:神戸電鉄「三木上の丸駅」より徒歩約5分
写真:乾口 達司
地図を見るもちろん、三木城は秀吉によって単に包囲されていただけではありません。三木城の危機を聞きつけた毛利方は、1579年(天正7)9月、秀吉軍を攪乱し、城内に兵糧を運び入れようと試みます。いわゆる平田・大村の合戦です。
このときは三木城内からも淡河城主の淡河弾正忠定範らが打って出て奮戦。秀吉軍を蹴散らしましたが、戦力の圧倒的な差の前に次第に追い詰められ、遂に自害したといわれています。
写真は、八幡森史跡公園の一角にある石碑。定範の自害した地に建立されており、「平田大村加佐合戦戦没将士之霊」「淡河弾正忠定範戦死之址」と刻まれています。三木合戦といえば、籠城戦というイメージがありますが、実際には兵糧の補給をめぐって、両軍のあいだで激しい戦闘も繰り広げられていたのです。
<八幡森史跡公園の基本情報>
住所:兵庫県三木市加佐
アクセス:神戸電鉄「三木駅」より徒歩約10分
写真:乾口 達司
地図を見る淡河弾正忠定範らの奮戦もむなしく、籠城から2年、遂に長治は自害。三木合戦は終結し、三木城は開城となりました。
三木城跡の南方に位置する雲龍寺もまた三木城の一部であったとされています。その雲龍寺の境内には、長治夫妻の首塚が残されています。
ご覧のように、墓前には花も手向けられており、いまでも大切にお守りされていることがうかがえます。
<雲龍寺の基本情報>
住所:兵庫県三木市上の丸町9-4
アクセス:神戸電鉄「三木駅」より徒歩約10分
写真:乾口 達司
地図を見る一方の秀吉は、三木城の北東に位置する平井山に本陣を敷きました。山頂付近には、現在も当時のものとされる土盛りなどが見られます。
写真:乾口 達司
地図を見る戦後処理を終えた秀吉は西へと軍を進め、播磨一国の平定を成し遂げました。しかし、そんな秀吉自身、この合戦の最中に大切な人を失っています。秀吉に付き従い、数々のいくさを乗り越えてきた軍師・竹中半兵衛(重治)です。
以前から病を発症させていた半兵衛は秀吉の命によって京都で療養していましたが、膠着した戦況を見かねて播磨に舞い戻り、1579年(天正7)6月13日、遂にこの地で亡くなりました。享年36。秀吉はその死を深く嘆き悲しんだといわれていますが、その意味で、三木合戦は秀吉にとっても終生忘れられない戦いであったといえるでしょう。
写真はそんな半兵衛の墓。秀吉の本陣が置かれていた平井山のふもとにあり、いまも大切にまつられています。
<平井山・竹中半兵衛の墓の基本情報>
住所:兵庫県三木市平井
アクセス:神戸電鉄「恵比須駅」より徒歩約30分
写真:乾口 達司
地図を見る三木城の落城後、秀吉は三木城のふもとに位置する本要寺に本陣を移し、戦後処理に着手します。
秀吉のとった政策は、戦火から逃れた領民たちを三木の地に呼び戻すため、租税を免除するというものでした。その仕置きはみずからをさんざん悩ませた相手に対するものとは思えないほど寛大であり、そのあたりに後の天下人・秀吉の度量の大きさを見てとることができますね。
<本要寺の基本情報>
住所:兵庫県三木市本町2-3-6
アクセス:神戸電鉄「三木駅」より徒歩約5分
三木合戦の経緯、おわかりいただけたでしょうか。ほかにも、平田・大村合戦の折、戦死した秀吉方の有力武将・谷大膳の墓や別所氏の霊廟が置かれている法界寺など、今回紹介しきれなかったスポットがまだまだあります。この機会に三木の地に足を運び、長治と秀吉、両者の息詰まる攻防に思いを馳せてみてください。
2024年7月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2024/11/8更新)
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