首里城以前の中山王城!沖縄「浦添城」に残る戦跡とようどれ

首里城以前の中山王城!沖縄「浦添城」に残る戦跡とようどれ

更新日:2019/05/31 17:13

木村 岳人のプロフィール写真 木村 岳人 フリーライター
沖縄県・那覇市の北隣に位置する浦添(うらそえ)市。その中心に聳える浦添城は、かつて沖縄中部を支配していた中山王が築いたグスク(城)であり、首里城の前身ともいえる存在です。

太平洋戦争では砦として利用されたことから、浦添城は激しい攻撃を受けて徹底的に破壊され尽くしてしまいました。しかし、その跡地には生々しい戦災の痕跡のみならず、美しく蘇った王陵「浦添ようどれ」を見ることができるのです。
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歴代の中山王によって築かれた浦添城

歴代の中山王によって築かれた浦添城

写真:木村 岳人

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一説によると、浦添城は琉球王国の開祖と位置付けられている舜天(しゅんてん)王の居城として12世紀頃に築かれたといいますが、確証はなく定かではありません。一般的には英祖(えいそ)王統の13世紀末に築かれ、その後、察度(さっと)王統の14世紀後半から15世紀前半にかけて拡張されたと考えられています。

浦添城は正殿を中心に堀と城壁を巡らした巨大なグスクで、周囲には王陵や寺院、有力者の屋敷や集落を置くなど、のちの首里城の原型が既に完成していました。特に正殿跡からは高麗系の瓦屋根が出土しており、他に瓦葺きの建物が存在したグスクは首里城と勝連城のみだけで、浦添城がいかに格の高い城であったのかが分かりますね。

歴代の中山王によって築かれた浦添城

写真:木村 岳人

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1406年になると中山の権力を掌握した尚巴志(しょうはし)が居城を浦添城から首里城へと移し、まもなく北山と南山を撃破して三山を統一。1429年には尚巴志を初代国王とする琉球王国が誕生しました。

首里城への遷都によって浦添城は荒廃しましたが、その後、第二尚氏の第三代国王・尚真王(しょうしんおう)の子である尚維衡(しょういこう)が浦添城に居住。以降はその子孫が屋敷を構えていましたが、1609年の薩摩藩による琉球侵攻によって焼失しました。

戦災で甚大な被害を受けつつも遺構が残る!

戦災で甚大な被害を受けつつも遺構が残る!

写真:木村 岳人

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太平洋戦争の沖縄戦において、浦添城が位置する丘陵一帯は「前田高地」と称され、首里周辺の防衛拠点として日本軍の陣地が置かれていました。幾度となく激しい争奪戦が繰り返され、戦前まで残っていた城壁の大部分は日米両軍の攻撃によって破壊されてしまったのです。

今もなお地中には戦時中に築かれた地下壕が巡らされており、また城跡の南側には食料を備蓄していた缶詰壕やカンパン壕が現存するなど、戦時中の緊迫感がひしひしと伝わってくる戦災遺構が残されています。

戦災で甚大な被害を受けつつも遺構が残る!

写真:木村 岳人

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浦添城の中心部に位置する「ディーグガマ」もまたそのひとつ。鍾乳洞が陥没してできた御嶽(うたき、拝所)ですが、沖縄戦の直後には戦没者の遺骨を納める納骨堂として使われていました。それらの遺骨はのちに改葬されましたが、現在も御嶽の入口には平和への祈りを込めた千羽鶴が捧げられています。

戦災で甚大な被害を受けた浦添城ですが、戦後においても採石事業により北東部分が大きく削り取られるなど、地形の改変が行われました。しかしながら、その後の発掘調査によって多くの遺構が良好な状態で残っていることが明らかになっており、1989年には国の史跡に指定されました。

灰燼に帰すも見事な復活を遂げた「浦添ようどれ」

灰燼に帰すも見事な復活を遂げた「浦添ようどれ」

写真:木村 岳人

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浦添城の北側には、英祖王が咸淳年間(1265〜1274年)に築いたとされる王陵「浦添ようどれ」が存在します。1620年には浦添出身の尚寧(しょうねい)王が改修を行っており、自らもそこに葬られました。

「ようどれ」とは琉球の言葉で「夕凪」を意味していますが、「極楽」を指しているとも考えられており、別名で「極楽陵」とも呼ばれています。そのすぐ近くには、極楽寺という菩提寺も存在していました。

浦添ようどれは断崖に掘った横穴を墓室とし、その周囲を石垣で覆った壮大な陵墓ですが、やはり太平洋戦争で壊滅的な被害を受けました。しかし戦後まもなくの1955年には琉球政府によって墓室が修復され、また2005年には発掘調査の結果や戦前の写真、証言などに基づき石垣が復元され、往時の姿が見事に復活したのです。

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ニライカナイへの道筋を表現した陵墓構造!

ニライカナイへの道筋を表現した陵墓構造!

写真:木村 岳人

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浦添ようどれの入口は「暗(くら)しん御門(うじょう)」と呼ばれ、かつてはせり出した岩盤と石垣によって築かれたトンネル状の通路でした。真っ暗な地下道を潜り抜けることによって、あの世へと向かう演出だったのでしょう。残念ながら戦災によって岩盤が崩落してしまったため、現在はトンネルではなくなってしまいました。

ニライカナイへの道筋を表現した陵墓構造!

写真:木村 岳人

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暗しん御門の細道を抜けると「二番庭(なー)」に出ます。そこには「中御門(なーかうじょう)」と呼ばれる壮大なアーチ門が構えられており、聖域への入口を表しています。

中御門をくぐると、墓室のある広々とした「一番庭」に到着です。地面には白い石粉が敷かれており、周囲を覆う石灰岩の石垣と相まって。光り輝く世界を作り出しています。これは遥か東方にあるという琉球の理想郷「ニライカナイ」を表現しており、人の魂はニライカナイからやってきて、死後にニライカナイへ帰るという、琉球の死生観を色濃く反映した陵墓となっています。

墓室内部の様子は実寸大のレプリカで体感しよう!

墓室内部の様子は実寸大のレプリカで体感しよう!

写真:木村 岳人

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浦添ようどれの墓室は二つあり、向かって右側の西室が英祖王、左側の東室が尚寧王の陵墓であると伝わっています。内部には遺骨を納めるための厨子が安置されており、いずれも表面に仏像を彫るなど王の墓にふさわしい装飾が施されています。

墓室内部の様子は実寸大のレプリカで体感しよう!

写真:木村 岳人

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実物の内部を見ることはできませんが、浦添城の北側にある「浦添グスク・ようどれ館」に原寸大のレプリカが存在します。浦添城やようどれに関するビデオや資料も豊富に用意されていますので、ぜひとも立ち寄ることをオススメします。

浦添城の基本情報

住所:沖縄県浦添市仲間城原
電話番号:098-874-9345(浦添グスク・ようどれ館)
アクセス:「那覇バスターミナル」より琉球バス「56系統浦添線」で約35分、「浦添小学校前」バス停下車、徒歩約10分

2019年5月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

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掲載内容は執筆時点のものです。

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