日中戦争をテーマとした北京市「中国人民抗日戦争紀念館」

日中戦争をテーマとした北京市「中国人民抗日戦争紀念館」

更新日:2019/06/21 11:07

乾口 達司のプロフィール写真 乾口 達司 著述業/日本近代文学会・昭和文学会・日本文学協会会員
日本と中国はいまでこそ文化面でも経済面でも強いつながりがありますが、かつては激しく戦火を交えた時期がありました。「日中戦争」です。戦争は盧溝橋事件を皮切りに全面戦争へ突入しましたが、中国にはそういった日中間の不幸な歴史を忘れないために設置された博物館「中国人民抗日戦争紀念館」があります。今回は中国人民抗日戦争紀念館において、中国がかつての戦争をどのようにとらえているかをご紹介しましょう。

日本の要人も訪れる中国人民抗日戦争紀念館

日本の要人も訪れる中国人民抗日戦争紀念館

写真:乾口 達司

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「中国人民抗日戦争紀念館(ちゅうごくじんみんこうにちせんそうきねんかん)」は北京市豊台区にある戦争記念館。1937年7月7日に発生し、日中間の全面戦争に突入するきっかけとなった盧溝橋事件ゆかりの宛平城内に建てられています。

「抗日戦争」とは、日本人がいうところの「日中戦争」のこと。かつての忌まわしい歴史を忘れないため、1987年に建てられた中国国家一級博物館で、これまでに数名の日本の総理大臣をふくむ国家の要人も多数訪れています。

このように紹介すると、一般人の入館は認められていないのではないかと思う方もいらっしゃるでしょうが、心配ご無用。日本人もパスポートさえ提示すれば、無料で見学することができます。

日本の要人も訪れる中国人民抗日戦争紀念館

写真:乾口 達司

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展示面積は6700平方メートルにおよび、その広さに圧倒される方も多いでしょう。そのことは正面にあるこちらのモニュメントの規模からも推察できます。じっくり見てまわるつもりであれば、半日くらいの時間の余裕を想定しておきましょう。

盧溝橋事件によって全面戦争へ!日中戦争の経緯を紹介したコーナー

盧溝橋事件によって全面戦争へ!日中戦争の経緯を紹介したコーナー

写真:乾口 達司

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日本の中国進出が本格化するのは、1931年に起こった柳条湖事件に端を発する「満州事変」以降のこと。それ以降の日中双方の動静が、多くの資料やパネル展示によって紹介されています。

とりわけ、日中間の全面戦争に発展するきっかけとなった盧溝橋事件については詳しく、盧溝橋と宛平城およびその周辺地域に展開していた日本の支那駐屯軍、中華民国の国民革命軍双方の位置も模型で視覚化されています。

盧溝橋事件によって全面戦争へ!日中戦争の経緯を紹介したコーナー

写真:乾口 達司

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こちらは盧溝橋事件について紹介した日中双方の雑誌。どちらの国でも盧溝橋事件に対する関心がいかに大きかったかをうかがうことができます。

盧溝橋事件によって全面戦争へ!日中戦争の経緯を紹介したコーナー

写真:乾口 達司

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写真は中華民国側の軍人・宋哲元が所持していたとされるサーベル。宋は国民革命軍第29軍の軍長で、1935年以降は華北一帯を統治する冀察政権(冀察政務委員会)のトップでもありました。盧溝橋事件の発生当初、宋は日本側と交渉して停戦に持ち込みますが、やがて抗戦を決意。しかし、日本軍に敗走し、1940年、四川省で没しました。

「第二次国共合作」の動静を伝える資料

「第二次国共合作」の動静を伝える資料

写真:乾口 達司

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日本側の中国進出が先鋭化するなか、それまで対立関係にあった蒋介石率いる国民党政府と毛沢東率いる中国共産党とのあいだでも、国難打開に向けた工作がはじまります。そして、盧溝橋事件の発生を契機に双方の抗日民族統一戦線が明確になりました。いわゆる「第二次国共合作」です。これ以降、国民党政府と共産党は共同で日本軍への抵抗運動を本格化させるのです。

写真は「第二次国共合作」の経緯を紹介したコーナーです。

「第二次国共合作」の動静を伝える資料

写真:乾口 達司

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写真は、1936年の秋、毛沢東と周恩来によってしたためられた書簡。宛て先は「第二次国共合作」の立役者の一人である張学良。張は西安を訪れた蒋介石を監禁。当時、国民党政府と共産党とのあいだで繰り広げられていた内戦の停止などを求め、蒋もこれを受諾。後の「第二次国共合作」に向けた下地が作られたとされます。

「第二次国共合作」の動静を伝える資料

写真:乾口 達司

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もちろん、国共合作がなされたとはいえ、一般の将兵が戦地へとおもむくことには変わりありません。その多くは死を意識して戦地へとおもむいたことでしょう。

写真は四川省出身の王建堂が出征の折に父へ送ったとされる旗。みずからの死を意識した詩がしたためられており、「死」という文字が印象的で、中国では「死字旗」と呼ばれています。日本軍による侵略を「日寇」という言葉で表している点に、中国側が当時の日本のことをどのようにとらえていたかが良く表されています。

中国側の激しい抵抗がうかがえるジオラマ

中国側の激しい抵抗がうかがえるジオラマ

写真:乾口 達司

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写真は、中国側が山岳地帯で日本軍にゲリラ戦を挑んでいる様子を再現したジオラマ。こういったジオラマが各所に見られ、中国側の抵抗の激しさを物語っています。

中国側の激しい抵抗がうかがえるジオラマ

写真:乾口 達司

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ゲリラ戦は農村部でもおこなわれました。こちらは秘密の地下道を掘り、抵抗運動を繰り返した様子を再現したコーナー。全長10キロメートル以上もあった焦荘店の地下道をモデルにしたジオラマですが、彼らは村落の地下に張りめぐらせた地下道を縦横無尽に行き来し、日本軍を翻弄しました。こういった地下道はあちらこちらの村落に作られ、抵抗運動の拠点となっていました。

中国側の激しい抵抗がうかがえるジオラマ

写真:乾口 達司

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写真は瓶で作られた爆弾で鉄製のものは「鉄雷」、石で作られたものは「石雷」と呼ばれていました。日本軍に対してこういった武器も使われていたのです。

降伏調印式を再現したコーナーや戦利品展示コーナー

降伏調印式を再現したコーナーや戦利品展示コーナー

写真:乾口 達司

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1945年8月15日、日本は無条件降伏。日本の敗北により、日中戦争も終結しました。日本が中国に対して正式に降伏の調印式をおこなったのは9月9日のこと。

館内では、そのときの降伏調印式の式場も再現されています。

降伏調印式を再現したコーナーや戦利品展示コーナー

写真:乾口 達司

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降伏後、日本軍は段階的に本土へと撤退していきました。館内には、その折、日本軍が残していった武器や武具類を展示したコーナーも設置されています。展示品は銃や日章旗などさまざまです。

中国人民抗日戦争紀念館がいかに中国軍の活躍を顕彰した施設であるか、おわかりいただけたでしょうか。日中間の忌まわしい歴史を忘れないためにも、私たちこそ中国人民抗日戦争紀念館を訪れる必要があります。中国人民抗日戦争紀念館で日中の過去・現在・未来に思いを馳せ、恒久平和の構築に何が必要かをお考えください。

中国人民抗日戦争紀念館の基本情報

入館料:無料(パスポートの提示が必要)
住所:中華人民共和国北京市豊台区盧溝橋宛平城内街101号
電話番号:+86-010-83893163
アクセス:地下鉄14号線「大瓦窯駅」より徒歩約25分

2019年6月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2018/11/06 訪問

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