150年ぶりに四天王像が里帰り!行基信仰が繋ぐ奈良・喜光寺の文化財

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150年ぶりに四天王像が里帰り!行基信仰が繋ぐ奈良・喜光寺の文化財

150年ぶりに四天王像が里帰り!行基信仰が繋ぐ奈良・喜光寺の文化財

更新日:2019/07/09 15:42

いずみ ゆかのプロフィール写真 いずみ ゆか ライター
東大寺の大仏造立に尽力した名僧・行基。行基が開創・入寂した奈良市菅原町の喜光寺(旧菅原寺)には、江戸時代まで行基伝承の四天王像が安置されていましたが、行方不明になっていました。平成31年1月、奈良大学が所蔵の四天王を解体修理した際、「行基大菩薩御作 菅原寺」の墨書銘文を確認。喜光寺の四天王だと分かりニュースに!令和元年9月2日まで、150年ぶりの里帰り公開が行われています。
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「行基信仰」がつなぐ喜光寺の四天王像

「行基信仰」がつなぐ喜光寺の四天王像

写真:いずみ ゆか

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喜光寺の四天王像は、享保15年(1730年)に修理され、御本堂に安置されていた事が確認されています。調査にあたった奈良大学によると、江戸時代だけで少なくとも3回の修理が行われ、椿井仏師賢慶※らの関与が分かりました。
その後、明治期の神仏分離令による影響で他寺に渡り、長らく行方不明になっていました。

行基伝承があるものの、実際には行基の時代(奈良時代)作では無く、平安末期〜鎌倉前期の造立です。では、なぜ「行基伝承」が残っているのでしょうか?

※椿井仏所は、室町時代頃に慶派から分かれ、興福寺内の椿井にあった仏師組織。賢慶は、江戸時代の仏師であり、当時は大坂に仏所があった

「行基信仰」がつなぐ喜光寺の四天王像

写真:いずみ ゆか

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キーワードは「行基大菩薩御作」の墨書銘文から分かる「行基信仰」。

喜光寺は、奈良時代に活躍した僧・行基が活動の拠点にし、亡くなった縁が深い寺。行基は、大仏造立以前に、布教活動や寺院・橋・ダム・港・布施屋等の整備など、土木・社会福祉事業を行い、民衆から「行基菩薩」と呼ばれ、敬われてきました。

四天王像は、行基作では無いものの、「行基菩薩が自ら彫られた」という伝承が付与されるほど、当時の人々の間に「行基信仰」が根付いていた事が分かります。

解体修理を行った奈良大学の関根俊一教授は「類例が無いほどの多くの補材を用い、何度も丁寧に修理を重ねてきたのもこの(行基)伝承を念頭におけば理解できる」※と記しており、江戸時代の補材(部材)に「行基大菩薩御作」と墨書が残るのも行基信仰のあらわれと言えます。

※現地でご確認下さい

行基さんと喜光寺、そして明治期以降は荒れ寺に

行基さんと喜光寺、そして明治期以降は荒れ寺に

写真:いずみ ゆか

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喜光寺と縁が深く、奈良で「行基さん」と呼ばれ、親しまれている行基。行基は、東大寺大仏殿の雛形として喜光寺の本堂(重文)を建立したとの寺伝が残っており、本堂は「試みの大仏殿」と呼ばれています。

※現在の本堂は室町時代の再建。創建時とほぼ同じ場所に建っている事が発掘調査により判明している。

行基さんと喜光寺、そして明治期以降は荒れ寺に

写真:いずみ ゆか

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喜光寺は、養老5年(721年)、私寺として行基が創建。土地の名前から「菅原寺」と名付けられます。菅原寺(のちの喜光寺)は、平城京内における行基の布教・社会活動の拠点でもありました。当初は、民衆を惑わす存在として弾圧を受けた行基でしたが、聖武天皇に認められ、大仏造立の勧進という大役を担います。大仏造立に関する活動でも菅原寺が拠点になりました。

そんな行基と聖武天皇との関係の深さは、菅原寺が「喜光寺」の名を賜ったエピソードからも分かります。

天平20年(748年)11月、聖武天皇は行基が病に倒れた際、見舞いとして菅原寺に行幸。そして、御本尊(当時は千手観音像/現在は平安時代後期作の阿弥陀如来像)をお詣りしたところ、「御本尊の顔から不思議な光が放たれ」天皇はお喜びになり「歓喜の光の寺である」として「喜光寺」の名を与えたとの寺伝が残っています。

※写真は境内にある行基堂の行基菩薩像

行基さんと喜光寺、そして明治期以降は荒れ寺に

写真:いずみ ゆか

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行基創建の喜光寺も、明治期の神仏分離令により荒廃します。歌人で奈良の古社寺をこよなく愛した会津八一は、大正10、11年に喜光寺を訪れ、

「ひとりきて かなしむてらの しろかべに きしやのひびきの ゆきかへりつつ」という歌を詠みました。(境内に歌碑あり)

更に「この歌を詠みしは、この寺の屋根は破れ、柱ゆがみて、荒廃の条目も当てかねし頃なり。住僧はありとも見えず。(以下略)『自註鹿鳴集』より」と書き残していることから、いかに当時(大正期)の喜光寺が荒れ寺になっていたかが分かります。

この様な明治以降の荒廃を乗り越えて、期間限定ではありますが、奈良大学の協力で四天王像が喜光寺に戻ってきたことは、本当に意味がある事なのです。

なんと、御本尊も四天王もカメラ撮影OK!

なんと、御本尊も四天王もカメラ撮影OK!

写真:いずみ ゆか

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150年ぶりに元の寺へお戻りになった四天王像なので、写真に納めたい方も多いはず。嬉しい事に喜光寺の仏様はすべて撮影が可能。※折角なので、参拝の方の迷惑にならないよう気を付けながら、150年ぶりの御本堂内を撮影しましょう。

ちなみに、この多聞天像(北方を守護)の右腰部材(裏側)に「行基大菩薩御作菅原寺」の銘文が発見されました。(計6ヶ所で発見された)

※フラッシュ禁止

なんと、御本尊も四天王もカメラ撮影OK!

写真:いずみ ゆか

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その他、広目天像(西方を守護)の背面上部の部材でも銘文が発見されています。

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本当の意味での文化財的価値とは?

本当の意味での文化財的価値とは?

写真:いずみ ゆか

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こちらの写真は、持国天像(東方を守護)。本来であれば、御本尊を取り囲むように東西南北で安置される四天王像ですが、御本尊脇侍の観音・勢至菩薩の移動が困難とのことで、一列に配されるという、珍しい状態を参拝することができます。

本当の意味での文化財的価値とは?

写真:いずみ ゆか

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「大事なのは、行基入寂の地に行基信仰があったから、いつ頃かは分からないが四天王像に「行基大菩薩御作」と銘文が記された事。そのため、(像を)新たに作り替えるのでは無く、大切に修理保存されてきたという事。江戸時代から行基信仰への人々の想いがあったからこそ、現在まで残っているという事実です。そして神仏分離令という流れの中、(仏像が)どのように動いていったのかが分かる一つの例として、ポジティブに考える事ができます」と喜光寺の高次喜勝副住職。

明治期の神仏分離令によって(拡大解釈した人々により)廃仏毀釈が行われましたが、この喜光寺の四天王像は、時代を越えて、「行基信仰」がつなぎ、壊されること無く、大切に修理されながら今日まで残りました。

修理を重ねた事で古い部材が少ない事から、文化財的な価値は低いとされる四天王像ですが、人々の信仰によって守られてきたという意味で、本当の文化財としての価値があると言えるのかもしれません。
是非、現地を実際に訪れて、「行基信仰」を肌で感じてみて下さい。

※写真は、増長天像(南方を守護)。四天王像は、9月2日までのさとがえり公開を終えた後、創立50周年を迎える奈良大学の記念館に置かれる予定

蓮寺としても知られる喜光寺。ロータスロード期間に訪れよう!

蓮寺としても知られる喜光寺。ロータスロード期間に訪れよう!

写真:いずみ ゆか

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実は、奈良県内でも有数の蓮寺として知られている喜光寺。今回の「四天王像さとがえり公開」は、ちょうど蓮の見頃シーズンとも重なります。境内では80種250鉢の蓮が咲き誇り、御本尊・阿弥陀如来の極楽浄土を体感することができます。

また、喜光寺がある奈良市の西部「西ノ京」エリアでは、蓮を育てている薬師寺・唐招提寺・喜光寺・西大寺の4ヶ寺を巡る「奈良・西ノ京 ロータスロード特別御朱印めぐり」が(令和元年は8月18日まで)開催中。4ヶ寺や観光協会で販売の「四ヶ寺共通拝観券」(3800円、2000枚限定)を利用して、この時期だけの特別な参拝を楽しんでみては?

喜光寺「150年ぶり!四天王像さとがえり公開」の基本情報

会場:法相宗別格本山 喜光寺
住所:奈良市菅原町508
開催期間:2019年5月2日(木)〜9月2日(月)
9時〜16時30分(最終受付は16時まで)
拝観料:大人500円/子供300円(小・中学生)
アクセス:
近鉄橿原線 尼ヶ辻駅より徒歩約10分
近鉄奈良線 大和西大寺駅より徒歩約20分

2019年7月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2019/05/20 訪問

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