天下分け目の関ヶ原合戦!徳川家康最初陣跡「桃配山」

天下分け目の関ヶ原合戦!徳川家康最初陣跡「桃配山」

更新日:2013/01/11 17:38

安藤 美紀のプロフィール写真 安藤 美紀 おこもり温泉宿探求家、おいしいもの探検家
時は1600年。慶長5年9月15日午前2時頃、石田三成率いる西軍の主力が家康の謀略にかかり関ヶ原へ向かったという報告を受けた徳川家康は、岡山(現:美濃赤坂の勝山)の本陣を出陣し、関ヶ原へ。同日の6時〜7時頃にここ桃配山に到着、本陣を構えました。そして、来る午前8時、ついに決戦の火蓋が切って落とされたのです・・・。

家康が指揮をとったとされる桃配山

家康が指揮をとったとされる桃配山

写真:安藤 美紀

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「史跡巡りっておじさんっぽくない?」そんなことはありません。数年前から、歴女の間では好きな武将ゆかりの地を訪ねるのが大人気。私も歴史小説が好きで、時々史跡を訪れますが、そこでは女子が多くてビックリ。好きな武将と同じ場所に立ちたい!それが乙女心なのでしょう。

関ヶ原合戦の主役である、徳川家康が石田三成と繰り広げた合戦中、この地から指揮を与えたという、歴男・歴女にはたまらない史跡です。歴史小説を少々たしなむ程度の私ですら興奮してしまう土地ですから、歴史がお好きな方には最高の聖地ではないでしょうか。

家康も歩いたであろう道を400年の時を経て歩く

家康も歩いたであろう道を400年の時を経て歩く

写真:安藤 美紀

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あの徳川家康は、桃配山に登る最中に何を考えていたのでしょうか?家康の馬印は、「厭離穢土・欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど)」。戦ばかりでけがれた国土を、住みよい浄土(極楽)にするのが自分の役目!としていました。

豊臣秀吉亡き後、浮き足立った天下の諸将は、この関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康の元に統一され、この後270年間にわたり、戦の無い平和な時代が続きました。(厳密にはこのあと、大坂の陣が起こります。)

家康が采配を振った地

家康が采配を振った地

写真:安藤 美紀

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入り口から登ること約10分程で、あっけなく到着してしまいました。この地には、石碑の他に石が2つ残されており、この2つの石を家康は机と椅子にしたと言われています。

各陣地から寄せられる報告を元に、しきりと作戦会議が行われたのでしょう。その緊迫感がまだ残っているようで、心が引き締まるような感覚を味わいました。

東軍7万4000、西軍8万4000の大合戦を望む

東軍7万4000、西軍8万4000の大合戦を望む

写真:安藤 美紀

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桃配山の史跡の前に経つと、関ヶ原の地が一望できます。この先で、合計で16万人にも及ぶ兵士達によって、関ヶ原合戦が繰り広げられたのかと思うと、言葉に出来ない想いが全身を包みます。


徳川家康最初陣跡「桃配山」は当時の家康と同じ場所・目線に立つことが出来る希少な史跡として、歴史好きの方には特におすすめ!

関ヶ原の大自然の中に佇むこの史跡は、自分たちの国の歴史を知る・感じるスポットとして、日本人として一度は訪れておきたい場所です ^^


<徳川家康最初陣跡「桃配山」へ行くには>
関ヶ原インター(名神)で降り、365号を北へ→インターすぐの交差点(中町)で右折→国道21号交差点(一ツ軒)で右折すると、21号沿いにあります。

掲載内容は執筆時点のものです。 2012/09/14 訪問

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