写真:旅人間
地図を見る戦国時代に天下統一を目前とした主君織田信長を本能寺の変で倒し、その名を日本の歴史に刻んだ明智光秀。その後は羽柴秀吉との山崎の合戦に敗れ、落ち延びる途中、小栗栖で土民の竹槍に突かれて命を落としたと言うのが通説です。
ところが、岐阜県山県市には「桔梗塚」と呼ばれている明智光秀の墓があり、山崎の合戦の後も生き延び、関ヶ原の合戦にも出発したと言う衝撃の伝説があります。そんな山県市の明智光秀ゆかりの地を散策してみましょう。
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地図を見る光秀の墓は山県市中洞の白山神社の手前で左に折れ、檜林に囲まれた小路を上がって行くとスグ。この五輪の塔は不思議と直しても傾くと言われています。
伝説によれば、山崎の合戦に敗れて小栗栖で討ち取られて死んだのは、光秀の影武者 荒木山城守行信と言う人物。光秀は荒深小五郎と名を変えて故里の美濃国美山町中洞(現在の山県市)に隠れ住み、その後は関ヶ原の合戦で東軍に味方せんと村を出発するが、その道中で藪川(根尾川)の洪水に流され命を落とし、この地で埋葬されたと言う。まさに衝撃的な内容です。
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地図を見る光秀の父とされる土岐元頼は船田合戦で敗北し、山県の地に隠れ住んだと言われています。その後、土岐元頼は中洞源左衛門の娘お佐多(後の松枝)を妻に迎え、1526年8月15日に長男の十兵衛(明智光秀)が生まれます。中洞白山神社の前には産湯の井戸もあります。
山県市の伝承によれば、光秀が7歳の時に父は没し、父の遺言に従い祖父の中洞源左衛門にともなわれ可児の明智城へ行き、明智光綱の養子となったと言われています。
(※明智光秀の生誕地に関しては諸説様々です)
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地図を見るこの「中洞 白山神社」は、光秀の母が学問並びに出世を祈願したと伝わり、学問と出世の神様として地元の人々には崇められています。
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地図を見る明智光秀は、荒深小五郎と名を変えて山県市に隠れ住んでいたと前述しましたが、荒深と言う名前は、光秀の為に命を落とした荒木山城守の忠誠に深く感銘し、この事実を子孫に伝えようと荒木の「荒」、恩義を深く感じての「深」に由来するのだとか。
その意思を受け継ぎ、この中洞白山神社を荒深姓(20名余り)で代々より管理をし、その取りまとめをされている荒深勝治さんは、山県市に伝わる明智光秀の逸話を多くの人に伝えようと常日頃から村民一体となって活動されています。
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地図を見る中洞白山神社には明智光秀の位牌もあります。この位牌は一般公開されていませんが、4月の第2日曜、12月の第1日曜の供養祭で公開されます。この供養祭では、山県市に伝わる明智伝説など詳しく聞けるかもしれませんね。
※将来的に位牌は本殿でいつでも見られるように計画もされているとのことです。
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地図を見る明智光秀に関しては、逆臣の烙印を押された事もあってか光秀の生涯に関する資料は意図的に歴史から抹消され、捏造も多く、出生地も本能寺の変の真相も定かではありません。
山県市には土岐宗家の最後の居城であった大桑城址を始め、明智光秀の産湯の井戸、お墓、お位牌など今に残る史跡や伝承は貴重な資料として注目されています。また、山県市の花は土岐氏の家紋と同じ「桔梗」です。
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地図を見る武儀川に「行徳岩」と名付けられた岩石があります。その昔、明智光秀の母が懐妊していた時、この岩に立って行水し、「もし男であったら、三日でも良いから天下を取るような立派な男の子を、もし女であったら、天下一の美女をお授け下さい」と祈ったと言う。
明智光秀は主君織田信長を本能寺で倒し天下を取りますが、わずか13日後には羽柴秀吉に敗れ、世間でいう三日天下で終わります。
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地図を見るこの行徳岩は国道256号の橋の上からも見え、すぐ近くまで歩いて行く事も可能です。ただ、行徳岩は長年の川の勢いで砕け、光秀の母が祈った頃より随分と形が変わっとも言われています。また、行徳岩はもっと川下にあるとの説もあります。
いずれにせよ、明智光秀ゆかりの地を巡る際は、この不思議なパワーを持つ岩も見逃さず見ておきたいですね。
住所:岐阜県山県市中洞1020
電話番号:なし
2019年10月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
取材協力:岐阜県
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(2024/3/19更新)
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