写真:乾口 達司
地図を見る直家は、享禄2年(1529)、宇喜多興家の子息として、砥石城で生まれたとされます。室町時代、備前国は守護大名・赤松氏の支配下にありましたが、応仁の乱の後、赤松氏の家臣だった浦上氏が台頭。浦上氏の家臣であった直家の祖父・能家はその右腕として活躍し、浦上氏の勢力拡大に尽力していました。
ところが、天文3年(1534)、能家は高取山城主・島村盛実の襲撃を受けて、砥石城で自害。直家と父・興家は備前福岡へと落ちのびます。そのとき、直家、わずか6歳。人間不信におちいっているかのように、身内に対しても容赦なく暗殺や寝返りを仕掛けた直家の冷徹な所業の原点に、この祖父の死とみずからの没落体験があったことは明らかでしょう。
砥石城跡は写真の山の上に位置しています。登ること、10分あまりで山上に到着しますので、ぜひ、城跡からの抜群の眺望を楽しんでください。眼前に岡山平野が広がり、砥石城が備前国の要に位置する山城であったことがわかるはず。ちなみに、その西方には祖父を殺害した宿敵・盛実の居城であった高取山城跡も残されています。
写真:乾口 達司
地図を見る成人後、浦上氏に仕えることになった直家は、家臣団のなかで頭角を現していきます。それに際して繰り返されたのが、直家ならではの悪行として恐れられる謀殺や寝返りの数々でした。なかでも、直家の非情さを象徴する事件として語られるのが、舅に当たる亀山城主・中山信正の暗殺事件です。信正に謀反の疑いをかけて殺害した直家は祖父の仇である盛実もおびき出して暗殺し、その勢いを借りて亀山城を乗っ取ります。以後、直家は15年にわたった亀山城を拠点に活躍していくのです。しかし、相手が肉親でさえ、気を許していると寝首をかかれるといった当時の時代状況にあって、特段、直家だけが非情であったとはいえないでしょう。その点を念頭に置いて直家の所業を見ていくと、新たな直家像が浮かびあがってくるに違いありません。
現在、亀山城のあった小山には弁天神社がまつられていますが、その一角には直家の子息・秀家の生誕地であることを示す石像物も置かれています。直家はもちろん、直家の跡を継いだ秀家にとっても、亀山城は思い出の地であったことでしょう。
写真:乾口 達司
地図を見る浦上家臣団きっての実力者となった直家は、遂に主君・浦上氏を追放。備前国を中心にして備中・美作・西播磨にまで勢力をおよぼす戦国大名となります。その後は東西から伸張してきた織田氏と毛利氏とのはざまで寝返りを繰り返しながら巧みに渡り歩き、天正9年(1581)、波乱に満ちた52年の生涯を閉じますが、とかくダーティーなイメージがつきまとう直家がやがて岡山城の主となり、城下町の整備にとりかかったという功績にも目を向けなければなりません。そう、直家は、現在の岡山発展の礎を築いた人物でもあったのです。
岡山市の市街地にある光珍寺は、宇喜多家の菩提所。内陣の一角には直家をはじめ、宇喜多一族の位牌がまつられています。参拝は自由なので、ぜひ、直家の位牌にお参りください。
写真:乾口 達司
地図を見る岡山寺は光珍寺とは道路を挟んだ東側に建っています。光珍寺とはもとは一体のお寺でしたが、江戸時代に分割され、現在にいたっています。岡山寺で注目したいのは、境内に立つ写真の石塔。直家の供養五輪塔といわれており、光珍寺で直家の位牌にお参りした後は、こちらにもお参りしましょう。
写真:乾口 達司
地図を見る徳與寺の裏手に立つのは「法鮮」の銘が刻まれた巨大な五輪塔。直家の妻・お鮮(お福・円融院)をまつった供養塔であると伝えられています。直家の死後、絶世の美女であったお鮮は天下人・豊臣秀吉の寵愛を受け、直家とのあいだに生まれた秀家を豊臣政権の最高諮問機関・五大老の一人にまで押しあげるきっかけを作ったといわれます。お鮮の後半生を踏まえると、権謀術数の限りを尽くして宇喜多家の再興を成し遂げた直家の遺志とその卓越した手腕は、謀殺や寝返りとはまた違った形でその妻・お鮮にしっかりと受け継がれていることがうかがえますね。
直家が戦国大名としていかに波乱に満ちた生涯を歩んできたか、おわかりになったのではないでしょうか。青年時代の直家が過ごした乙子城をはじめ、岡山にはほかにも直家ゆかりのスポットがまだまだ残されています。NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』のなかで直家があくどい活躍を見せている今日、ぜひ、直家ゆかりの地をめぐり、その波乱に満ちた生涯に思いを馳せてみてください。
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(2025/1/19更新)
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