写真:乾口 達司
地図を見る「奈良博」の開館は、明治28年(1895)のこと。今日、仏像美術や青銅器などの常設展示がおこなわれ、「なら仏像館・青銅器館」の名でも親しまれている本館は、その前年に竣工しました。設計者は東京・赤坂の迎賓館(旧赤坂離宮)や京都国立博物館、東京国立博物館表慶館などを手掛けた、明治期を代表する建築家・片山東熊。現存する東熊の作品の多くが文化財に指定されているように、「奈良博」の本館も、日本を代表する近代建築の傑作の一つとして国の重要文化財に指定されています。
写真は西向きの正面。現在は裏手の東側から入館する形となっていますが、コリント式の4本の柱によって支えられた切妻屋根のペディメントなど、細部をじっくり観察すると、東熊ならではの意匠が各所に見られます。もちろん、常設展がもよおされている館内も必見!建物の内外から、その凝った意匠を鑑賞しましょう。
写真:乾口 達司
地図を見る本館と地下で連結している東側の建物は「西新館」「東新館」と呼ばれ、現在、正倉院展をはじめとする特別展が開催されるスペースとして活用中。西新館の竣工は1972年、東新館の竣工は1997年。いずれも皇居新宮殿の建設などにたずさわった昭和の名建築家・吉村順三による設計です。「奈良博」の建造物といえば、どうしても東熊の設計による本館の方ばかりに目が奪われてしまいがちですが、正倉院をイメージしたかのように思えるこちらの建物も、しっかりチェックしておきましょう。
写真:乾口 達司
地図を見る本館の東側には、中央に小島のある小さな池があります。島の中央、大きな宝篋印塔が安置されているのが、おわかりになるでしょう。鎌倉時代の作で、高さは2メートル余り。塔身の四方には金剛界四仏の種子が深く刻まれており、対岸からも、その図描がはっきりと確認できるほど。ついつい見落としてしまいがちですが、そのどっしりとしたたたずまいなどから、鎌倉時代に造られた宝篋印塔のなかでも名品に値するものなので、あわせて見学しておきましょう。
写真:乾口 達司
地図を見る本館の南側には、東西に並ぶ形で大きな土壇が、2箇所、残されています。土壇の上にはいずれも礎石の一群が点在していますが、これらは「春日東西塔跡」と呼ばれる、春日大社に属する仏塔の遺跡なのです。写真は「殿下の御塔」と呼ばれた西塔の跡地。西塔は、永久4年(1116)、関白・藤原忠実によって建立されました。一方、東塔は「院の御塔」と呼ばれ、保延6年(1140)、鳥羽上皇によって建立されています。その規模はいずれも興福寺の五重塔とほぼ同じであったとされていますから、高さ50メートルほどの巨大な仏塔が、当時、この地に並び立っていたわけです。
残念ながら、いずれも室町時代に焼失し、再建されずに現在にいたっていますが、その姿は奈良市南市自治会所蔵の『春日宮曼荼羅』(国指定重要文化財)などに描かれており、当時の威容をしのぶことができます。春日大社という神社の神域に仏塔が建っていたとは、いまの時代から見ると少し不思議に感じられるでしょう。しかし、これは中世に流行した神仏集合の名残りであり、その意味でも貴重な遺跡であるといえます。
写真:乾口 達司
地図を見る本館の西側には、写真の石碑が立っています。石碑には「宝蔵院流鎌槍発祥之地」と記されていますが、「宝蔵院流鎌槍」という言葉にピンときたあなた!あなたは、きっと、宮本武蔵のファンですね。そう、ここは宮本武蔵の武芸譚に必ず登場する十文字鎌槍の名手・胤舜が暮らした宝蔵院の跡地なのです。吉川英治の大衆小説『宮本武蔵』を原作にして描かれた井上雄彦の漫画『バガボンド』において、武蔵が十文字鎌槍を手にした胤舜と死闘を繰り広げる様子を鮮烈に記憶しているファンの方も多いのではないでしょうか。
宝蔵院は興福寺の子院。胤舜の先代に当たる胤栄が猿沢池に浮かぶ三日月を突いて十文字鎌槍を考案したのが、「宝蔵院流鎌槍」の起源であるといわれています。しかし、まさか、こんなところに、あの武蔵の好敵手・胤舜が暮らしていたとは!この石碑を見てはじめて知る人も多いはず。この場で武蔵と胤舜が死闘を繰り広げたかも知れないと思うと、ワクワクしてきませんか?
「奈良博」の魅力が展示物だけではないこと、おわかりになったのではないでしょうか。ほかにも、興福寺・大乗院の境内にあった江戸時代中期の茶室・八窓庵など、「奈良博」の周囲にはほかにも見ておきたいものがまだまだ点在しています。館内の展示品だけで満足せず、建物やその周囲にも目を向け、古代から近代にいたる豊かな歴史をたたえた「奈良博」の魅力をよりいっそう堪能してください。
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(2025/1/19更新)
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