日本史好き必見!国境の島「壱岐」で巡りたい歴史名所5選

日本史好き必見!国境の島「壱岐」で巡りたい歴史名所5選

更新日:2020/01/25 16:43

土庄 雄平のプロフィール写真 土庄 雄平 山岳自転車旅ライター・フォトグラファー
日本列島と朝鮮半島の間に位置する「壱岐」。昔から日本の外交上極めて重要な場所であったこの地には、様々な歴史の痕跡が残されています。例えば、神功の三韓征伐を起源とする聖母宮や、魏志倭人伝の一支国に比定された原の辻遺跡、県最大級の壱岐古墳群や元寇の古戦場、朝鮮出兵に使用された山城等。時代は様々ですが、どれも高校で習う日本史に直結しています。今回はそんな壱岐で巡りたい歴史名所を厳選して5つご紹介!

神功皇后の三韓征伐が由来!勝負の神「壹岐國二之宮 聖母宮」

神功皇后の三韓征伐が由来!勝負の神「壹岐國二之宮 聖母宮」

写真:土庄 雄平

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古代天皇家の中でも、とりわけ数多くの伝説に彩られている「神功皇后」。14代仲哀天皇の皇后にして、日本史上で唯一、女帝として活躍した人物として知られています。そんな神功皇后の功績として名高いのは「三韓征伐」!新羅を降伏させ、百済と高句麗を傘下に入れたという大遠征であり、この壱岐もその舞台の一つとして登場します。

遠征の途中、風待ちのため壱岐に停泊した際に、素晴らしい追い風が吹いたことで、神功皇后はこの地を「風本」と名付けました。そしてこの追い風が功を奏し、無事朝鮮へ辿り着き、三韓征伐を果たすことができたため、彼女は帰路でも壱岐に立ち寄って、風本→勝本へ改めたと伝わっています。これが現在の「勝本町」の名前の由来です。

神功皇后の三韓征伐が由来!勝負の神「壹岐國二之宮 聖母宮」

写真:土庄 雄平

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そんな伝承の拠り所となっているのが「壹岐國二之宮 聖母宮」!神功皇后の別名「聖母(しょうぼ)を冠した神社です。創建された時期は不明ですが、奈良時代には社殿が建っていたことが分かっています。また、その成立の背景から、勝負の神として称えられ、朝鮮出兵の際にも加藤清正らが参拝し、門を寄進したことでも有名です。

<壹岐國二之宮 聖母宮の基本情報>
住所:長崎県壱岐市勝本町勝本浦554-2
電話番号:0920-42-0914
アクセス:バス停・勝本入り口から徒歩20分

邪馬台国に匹敵!幻の一支国の首都「原の辻遺跡」

邪馬台国に匹敵!幻の一支国の首都「原の辻遺跡」

写真:土庄 雄平

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日本史上で、初の文献資料として登場する「魏志倭人伝」。専ら、弥生時代の日本を纏め上げた勢力として"邪馬台国と卑弥呼"へ注目が集まりがちですが、実はもう一つ「一支国(いとこく)」という記述が登場します。そして、この一支国の国都こそ、壱岐にある「原ノ辻(はるのつじ)遺跡」がであったと推定されているのです。

邪馬台国に匹敵!幻の一支国の首都「原の辻遺跡」

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原の辻遺跡は、壱岐の東部・幡鉾川の下流に発達した大規模環濠集落で、度重なる発掘調査から幾つもの巨大な館の存在が確認され、大陸系出土物(中国鏡・戦国式銅剣・貸銭など)が見つかっており、中国・朝鮮半島と密接な関係性を有した強大な勢力であったことが裏付けられています。

邪馬台国に匹敵!幻の一支国の首都「原の辻遺跡」

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遺跡内には、居館や倉庫、祭祀場など当時の建物が復元されており、自由に歩き回ることが可能です。丘陵上に建物群が佇む風景は趣があり、同時に周囲を見渡し、攻撃に備えるためにベストなロケーションであったことも分かるでしょう!まるで弥生時代に迷い込んだかのような不思議な時間が流れる歴史マニア必訪スポットです。

<原の辻遺跡の基本情報>
住所:長崎県壱岐市芦辺町深江鶴亀触
アクセス:印通寺港・壱岐空港から車で5分

壱岐は古代九州の先進地!?圧倒的な規模の「壱岐古墳群」

壱岐は古代九州の先進地!?圧倒的な規模の「壱岐古墳群」

写真:土庄 雄平

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大規模な環濠集落に続いて、島の中央部には大規模な古墳群が形成されていることも壱岐の特徴の一つです。いずれも6世紀後半〜7世紀に連綿と築かれたもので、同時期の九州と比べても屈指の規模を誇っています。

壱岐は古代九州の先進地!?圧倒的な規模の「壱岐古墳群」

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巨石を駆使した横穴式石室、大量の出土品、墳墓の大きさ。いずれを見ても、かなり有力者のお墓であったことが分かっており、朝鮮半島に由来する副葬品の多さから、大和政権に属しながら、東アジア交流の中心地を担っていたという見方が有力です。

壱岐は古代九州の先進地!?圧倒的な規模の「壱岐古墳群」

写真:土庄 雄平

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中でも最大規模を誇る「双六(すごろく)古墳」は、島の山奥に突如開けた空間を切り拓き、営まれた大首長墓。特に高さのある後円部が迫力抜群!墳頂へ上ることも可能なので、ぜひ古代の壱岐へ思いを忍ばせながら歩いてみて下さいね。

<壱岐古墳群/双六古墳の基本情報>
住所:長崎県壱岐市勝本町立石東触52
アクセス:芦辺港から車で15分

朝鮮出兵の足掛かり!対馬灘を見渡す山城「勝本城跡」

朝鮮出兵の足掛かり!対馬灘を見渡す山城「勝本城跡」

写真:土庄 雄平

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壱岐は古代史の文化遺産が多い印象ですが、実は中世から近世へ至るまでの史跡も点在します。中でも代表的なものが、島の北側に位置する「勝本城跡」でしょう!昔ながらの情緒を感じさせる壱岐随一の漁村・勝浦の町を見渡す高台にあるこの城は、朝鮮出兵に際して築かれたもの。

朝鮮出兵の足掛かり!対馬灘を見渡す山城「勝本城跡」

写真:土庄 雄平

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名護屋城から朝鮮へ足を延ばすのに重要な拠点であるのと同時に、いつ攻め込まれるか分からない国防拠点でもありました。それ故、壱岐の北側まで明瞭に見える立地かつ、石垣を整え、攻めづらい山城を呈したのでしょう。

朝鮮出兵の足掛かり!対馬灘を見渡す山城「勝本城跡」

写真:土庄 雄平

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朝鮮出兵の終了後、建物は壊され、現在は石垣のみが残ります。信仰の島・壱岐らしく、その城跡には城山稲荷神社が築かれ、勝本を象徴的する風景の一つになっています。

<勝本城跡/城山公園の基本情報>
住所:長崎県壱岐市勝本町坂本触750
アクセス:バス停・勝本入り口から徒歩15分、勝本から車で5分

その大砲は戦艦大和並み!?東洋一の砲台「黒崎砲台跡」

その大砲は戦艦大和並み!?東洋一の砲台「黒崎砲台跡」

写真:土庄 雄平

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さらに、近世以降の壱岐を代表する歴史名所が、壱岐屈指の絶景“猿岩”から徒歩10分の場所に位置する「黒崎砲台跡」。明治維新以後、富国強兵策で軍備増強をはかった近代日本の戦争遺跡です。国境の島である「壱岐」は古代から近代にいたるまで、一貫して日本の大事な国防拠点となっていたことが裏付けられるでしょう。

その大砲は戦艦大和並み!?東洋一の砲台「黒崎砲台跡」

写真:土庄 雄平

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現在、砲台は取り除かれ、その遺構のみが残りますが、かつてこの場所に据えられていた砲台は、のちの戦艦大和に建造技術が受け継がれる当時の大戦艦・土佐に搭載された主砲。射程距離35kmという驚異的な飛距離を備え、東洋一の砲台とも言われました。しかし、実際には一度も使用されることがなく、昭和25年に解体されています。

なお、戦艦土佐の主砲がここに据えられたのは、当時のワシントン軍縮会議の結果。建造中であった土佐は解体され、その主砲だけこの黒崎砲台へ転用されたのです。まさに高校で習う日本史にしっかり通じていますね。

<黒崎砲台跡の基本情報>
住所:長崎県壱岐市郷ノ浦町新田触870
アクセス:郷ノ浦港から車で30分〜1時間

各時代の歴史が残る「壱岐」史跡巡りの旅が面白い

神社が多いという事実と並んで、壱岐を特徴づけているのは、史跡の多さでしょう!国産み神話に始まって、古代から中世、近世から近代へ至るまで、各時代の歴史資料が多く根付いており、それを辿ることで壱岐の歩んできた歴史の流れを追体験することが可能です。そこには、神話伝承や古墳が放つミステリアスな世界や、国防拠点という緊張感を感じるシーン、様々な側面を有しています。歴史好きなら一度訪れる価値あり!

2020年1月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2019/12/28−2019/12/30 訪問

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