蘇我石川麻呂の栄光と悲劇を伝える奈良県桜井市「山田寺跡」

蘇我石川麻呂の栄光と悲劇を伝える奈良県桜井市「山田寺跡」

更新日:2023/09/01 13:51

乾口 達司のプロフィール写真 乾口 達司 著述業/日本近代文学会・昭和文学会・日本文学協会会員
「乙巳の変」といえば、飛鳥時代、大王家を凌ぐほどの力を有していた蘇我氏の本宗家が滅亡した事件として、その名を知る方も多いでしょう。その事件の立役者といわれているのが、蘇我石川麻呂。奈良県桜井市にはその石川麻呂が創建した山田寺の跡が残されており、学術上、きわめて貴重な文化財を多数出土させています。今回は、発掘当時、世紀の大発見と騒がれた国の史跡「山田寺跡」をご紹介しましょう。

史跡公園として整備されている「山田寺跡」

史跡公園として整備されている「山田寺跡」

写真:乾口 達司

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「山田寺跡(やまだでらあと)」は、奈良県桜井市に位置している古代寺院の跡。飛鳥時代、大王家と姻戚関係を結び、大臣として絶大な権勢を振るった蘇我氏の一族・蘇我倉山田石川麻呂によって創建されました。

石川麻呂は蘇我氏の一族でありながら「乙巳の変」(645年)に参加。変の後は右大臣に就任し、改新政府の中心人物となりました。しかし、649年、謀叛を疑われ、山田寺で一族ともども自害しています。その意味でも石川麻呂は乙巳の変によって成立した改新政府の栄光と悲劇を一身に背負った人物であったといえるでしょう。

史跡公園として整備されている「山田寺跡」

写真:乾口 達司

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『上宮聖徳法王帝説』裏書によると、山田寺の創建は641年。643年には金堂の造営がはじまります。造営は石川麻呂の自害によって一時中断するものの、676年には塔が完成。685年には本尊に当たる丈六仏の開眼法要もいとなまれています。

『扶桑略記』によると、1023年には藤原道長も参詣。道長が伽藍の様子を「奇偉荘厳」と評していることからも、山田寺が平安時代に入ってもなお隆盛を誇っていたことがうかがえます。しかし、その後、荒廃。伽藍の大半が長らく土に埋もれたままとなっていました。

山田寺の発掘調査が本格的にはじまったのは1960年代。調査によって山田寺の規模が次第に明らかになりました。現在、発掘調査の終わったところは史跡公園として整備され、ご覧のように、建造物のあったところはマウンドによって示されています。

史跡公園として整備されている「山田寺跡」

写真:乾口 達司

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敷地の一角には創建当時の伽藍を推定した復元図も描かれています。こちらを参照しながら敷地内を散策するのも一計でしょう。

石川麻呂自害の地!中央伽藍の痕跡

石川麻呂自害の地!中央伽藍の痕跡

写真:乾口 達司

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写真は金堂跡。発掘調査により、身舎と庇とが同じ正面3間(柱4本)・側面2間(柱3本)の構造となっており、一般的な古代の仏堂様式とは異なっていることが判明しています。

堂内には先に紹介した本尊の丈六仏が安置されていました。『玉葉』によると、丈六仏は、1187年、興福寺東金堂の衆徒によって奪い去られ、現在、その頭部だけが国宝として興福寺の宝物館に収蔵されています。

注目したいのは、手前左側の大きな石。これは金堂の前に据えられていた礼拝石を復元したもので、全国的に類例の少ない遺構。石川麻呂の一族はこのあたりで自害したと考えられています。

石川麻呂自害の地!中央伽藍の痕跡

写真:乾口 達司

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写真は金堂跡から塔跡を撮影したもの。塔跡の向こうには中門のあったことを示すマウンドも見られます。

ここからは山田寺の伽藍配置が中門・塔・金堂・講堂を中軸として南北に一直線に並んでいたことがわかります。これは大阪府の四天王寺に見られる伽藍配置と似ていますが、四天王寺では中門の左右から伸びる回廊が北面の講堂の左右に接続しているのに対して、山田寺の場合、講堂は金堂と塔を取りかこんだ回廊の外側に独立して配置されています。その点に山田寺独特の伽藍配置がうかがえます。

石川麻呂自害の地!中央伽藍の痕跡

写真:乾口 達司

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こちらは宝蔵跡。付近からは仏具や経典にかかわる遺物が数多く出土しています。

世紀の大発見!東回廊跡

世紀の大発見!東回廊跡

写真:乾口 達司

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金堂と塔から成る中央伽藍をぐるりと取りかこむようにして設けられていたのが、回廊です。

すでに失われたと思われていた東回廊が、倒壊したままの状態で土中から発見されたのは、1982年のこと。発見された東回廊は現存する世界最古の木造建造物である法隆寺よりも古い作例であり、現在、その原寸大の復元模型が奈良文化財研究所飛鳥資料館に展示されています。

世紀の大発見!東回廊跡

写真:乾口 達司

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廻廊跡には、仏教にとって重要な花とされる蓮の花をかたどった復元礎石も点在しています。

当時の礎石も残る!講堂の上に立つ現在の仏堂

当時の礎石も残る!講堂の上に立つ現在の仏堂

写真:乾口 達司

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写真は現在の山田寺。住職が常住しておらず、ご覧のように荒れ果てた小堂がぽつんと一つ建っているだけですが、こちらは創建当時の講堂があったところ。その痕跡を示すかのように、各所に当時の遺構が認められます。

当時の礎石も残る!講堂の上に立つ現在の仏堂

写真:乾口 達司

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たとえば、お堂の柱を支えているのは、当時の礎石です。

当時の礎石も残る!講堂の上に立つ現在の仏堂

写真:乾口 達司

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お堂の脇の地面には、当時の縁石の遺構も確認できます。

当時の繁栄がまるで嘘のように荒れ果てているとはいえ、いまでもかつての遺構が見られるのは有り難いですね。

山田寺のかつての鎮守社?隣接する東大谷日女命神社

山田寺のかつての鎮守社?隣接する東大谷日女命神社

写真:乾口 達司

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山田寺跡の西側に隣接するこちらの神社は「東大谷日女命神社(やまとおおたにひめのみことじんじゃ)」。

「東」を「やまと」と読むことから、蘇我氏に仕えた渡来系氏族「東漢氏(やまとのあやのうじ)」ゆかりの神社ではないかといわれています。その説を敷衍すると、東大谷日女命神社はかつては山田寺の鎮守社であったかも知れませんね。

山田寺のかつての鎮守社?隣接する東大谷日女命神社

写真:乾口 達司

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ちなみに、境内にあるこちらの石造燈籠は鎌倉時代の作。石大工の薩摩権守行長によって建立されたもので、国の重要文化財です。

山田寺跡がいかに貴重な遺跡であるか、おわかりいただけたでしょうか。山田寺跡で石川麻呂の栄光と悲劇に思いを馳せてください。

山田寺跡の基本情報

住所:奈良県桜井市山田
アクセス:JR・近鉄桜井駅よりバスで約10分

2023年9月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2023/01/29 訪問

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