一押しの隠れスポット、京都・一乗寺村金福寺

一押しの隠れスポット、京都・一乗寺村金福寺

更新日:2014/05/30 11:40

叡山電鉄山本線・一乗寺駅を出て、一筋南の通りを東に山際まで10分ほど歩くと金福寺に至ります。近くの詩仙堂は大人気スポットですが、その詩仙堂を一回り小さくした箱庭感覚が味わえる隠れ家的な禅院の魅力を紹介します。

石庭を前にしばし瞑想・金福寺の本堂

石庭を前にしばし瞑想・金福寺の本堂
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芭蕉・蕪村の像や作品を展示した本堂は、禅院にふさわしい石庭を前に置き堂縁に坐してのんびりと過ごすのにもってこいの場所です。
僕は天明の詩人の史蹟を辿りこの寺を訪れましたが、ここは舟橋聖一の小説『花の生涯』で有名な井伊直弼の愛人・村山たか女が死罪をまぬがれて、晩年の数年を侘び住んだ寺としても有名です。
金福寺(こんぷくじ)は、もともと天台宗に属していましたが、衰退していたのを貞享年間(1684〜1688)に、円光寺の住職だった鉄舟が再興し、臨済宗にあらためられました。鉄舟と親しかった芭蕉は、京へ上るたびにこの寺を訪れたので、止宿した草庵を雪舟が芭蕉庵と号したと伝えられます。

金福寺
拝観料 400円 
開門時間午前9時〜午後5時
この寺オリジナルの「俳聖かるた」(1000円)がおすすめ。

芭蕉庵再興成る

芭蕉庵再興成る
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石垣にかこまれた境内に降り立ち、本堂の前を裏手に登っていくと茅葺の庵があります。
鉄舟の名づけた庵は、その後再び廃れていましたが、蕪村の弟子の道立が発起人となって、再興します。蕪村はその意気に大いに賛同して、安永5(1776)年4月26日に落成するや、門弟を集めて歌仙を巻き、それを記念して写経社をつくり、4月と9月に寺内の残照亭で句会を開くと決めました。
「耳目肺腸ここに玉まく芭蕉かな」
耳目肺腸(じもくはいちょう)とは、全身を意味する漢語。句意は、芭蕉翁の心をすべて堅く巻いた芭蕉の葉に包み庵はできたというほどのものです。
翌5月13日、蕪村は「洛東芭蕉庵再興ノ記」を記します。この文章は、名文家の蕪村の作品の中でもとりわけ格調が高く、文中、雪舟のことを「手ずから雪炊の貧を楽しみ、客を謝絶して深くこもりおはしけるが」と述べていますが、それは蕪村その人の切なる望みでもありました。

寺には、写真が趣味だったという住職が撮った昭和30年頃の一面の田んぼがひろがる一乗寺村の写真パネルがあり、所望すれば閲覧できます。それによると、つい40年ほど前まで、蕪村の生きた時代とさほど変わらない風景が目の前にひろがっていたことが納得されます。

ひときわめだつ蕪村の墓と・・・

ひときわめだつ蕪村の墓と・・・
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芭蕉庵のさらにその上の丘には、蕪村の死後出家した妻の清了尼も、没後同所に葬られたという、ひときわ大きな蕪村の墓があり、その脇には、仲間といさかいの絶えなかった不肖の弟子ではありましたが、蕪村が最後までその才能を認めてやまなかった大魯(たいろ)の墓がひっそりと置かれています。彼は腸結核の病身を押して死の直前に蕪村を慕って上京し、まもなく虚しくなってしまいます。門弟からは不評だった大魯の墓は、蕪村の墓に比べると小石ほど。しかし、そのたたずまいからは師弟愛のほどが十分に伝わってきます。
その近くには、同じく画俳双方の道で蕪村を慕った呉春(池田の同名の酒は、彼にちなんだもの)の墓もあります。

おわりに

一乗寺村へは、出町柳駅から今出川通を東へとり、吉田山の北のあたりある巨大なランドマーク「子安地蔵」の辻を左に、白川疎水通を北へ。北大路通に突きあたったところで再び東へとると白川通にぶつかります。そこから数分、北東方向を目指すと金福寺に至ります。
徒歩で行く道中は、かって栄華を誇ったと思われるモダンな廃墟ビルや、京都市民のごく普通の生活空間が広がり、観光地とはまた違った親しみのもてる旅情が得られますので、是非トライしてみてください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/05/24 訪問

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