写真:木村 岳人
地図を見る旧益習館庭園がある下屋敷筋は、洲本城が築かれている三熊山(みくまやま)と並んでそびえる曲田山(まがたやま)の北裾に位置しています。この一帯はかつて稲田氏とその重臣の屋敷が並んでいた武家町であり、旧益習館庭園もまた稲田氏の別荘である「西荘(せいそう)」に造営された庭園にルーツを持ちます。
下屋敷筋には旧益習館庭園以外にも「桑島邸庭園」「佐和邸庭園」「旧津田邸庭園」など曲田山に沿って造成された江戸時代の武家庭園にルーツを持つ庭園が複数残っており、その中でも大名クラスの石高を有していた稲田氏の手による旧益習館庭園は、まさしく洲本における武家庭園の代表格であると言えるでしょう。
写真:木村 岳人
地図を見る旧益習館庭園が位置するその場所は、元は江戸時代前期に洲本の城下町を整備した際に石材を切り出していた石切場でした。城下町が完成して石切場としての役目を終えた後に、西荘として整備されたと考えられています。
故に旧益習館庭園には石を切り出すためにクサビを一列に打ち込んだ痕である「矢穴」が残る石が数多く見られ、かつて石切場であった歴史を今に伝えています。
写真:木村 岳人
地図を見る西荘には頼山陽(らいさんよう)や浦上春琴(うらがみしゅんきん)など多数の文人墨客が訪れていました。幕末の嘉永7年(1854年)になると、西荘は稲田氏が開設した私塾「益習館」として利用されるようになり、西郷隆盛や桂小五郎、山県有朋(やまがたありとも)など名立たる勤皇志士が数多く訪れてます。
明治維新後の明治3年(1870年)には尊王派の稲田氏を佐幕派の徳島藩士が襲撃する庚午事変(稲田騒動)が勃発。それにより益習館の建物は焼失しましたが、幸いにも庭園は無事に残りました。以降は個人の所有となり、明治時代末期から大正時代にかけて新たな書院の建造や庭園の改修が行われています。
写真:木村 岳人
地図を見る旧益習館庭園はところどころに岩盤が露出する曲田山の斜面を利用して築山を造成しており、山から流れ込む水を引いた園池を設けています。正面には大滝(雄滝)を、その右側には小滝(雌滝)を組み、築山の上部には中心石(守護石)を据えています。
いずれの石組も石切場で産出された巨岩の自然石をふんだんに用いており、そこに人工的に形を整えた石を護岸として配し、他の庭園にはない極めてワイルドかつ迫力ある独自の庭園景観を造り出しています。
写真:木村 岳人
地図を見る近代の改修によって、園池の一部が埋め立てられたり、園池と書院の間に飛び石が敷かれたりと部分的に改修の手が加えられてはいますが、江戸時代中期に斎藤畸庵(さいとうきあん)が描いた西荘の絵図と比較しても、曲田山・巨岩・園池によって構成される基本的な空間要素は大きく変化していません。
写真:木村 岳人
地図を見る旧益習館庭園の見どころは、なんと言っても驚くほどに大きな巨岩です。石切場跡から産出された和泉砂岩はいずれも大ぶりなもので、最も巨大なものは幅約5.8m、高さ約4mと、庭石としては日本で最大級の規模を誇ります。
写真:木村 岳人
地図を見るまた庭園の西側にそびえる高さ4mの石灯篭にも驚かされます。これは江戸時代のものではなく近代の改修時に設置されたものですが、立方体に加工された火袋以外は天然の巨石を用いており、自然石が並ぶ庭園の中においても違和感なく溶け込んでいます。
写真:木村 岳人
地図を見る旧益習館庭園は回遊して観賞することができる「池泉回遊式庭園」として築かれており、園池の周囲を歩いて周ることができます。巨石の間を縫うように通された回遊路は渓谷を表現して築かれており、隅々まで探索することで書院側からでは鑑賞できない、次々と変化していく石組の風情を楽しむことができます。
写真:木村 岳人
地図を見る庭園に植えられている木々はクスノキやアラカシなどの常緑樹以外にも、秋には美しく色付くカエデ類も多く、紅葉の時期である11月には夜間ライトアップの特別公開も開催されます。四季を通じて迫力ある巨岩と繊細な植生が醸し出す、他の日本庭園とは一味違った旧益習館庭園ならではの景観を楽しんでみてはいかがでしょうか。
住所:兵庫県洲本市山手3丁目3-17
電話番号:0799-24-7632(洲本市教育委員会生涯学習課)
アクセス:洲本バスセンターから徒歩約15分、レンタサイクルで約5分
開園日:土日祝日(平日は休園)
開園時間:10時〜16時
入園料:無料
2020年4月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2024/3/28更新)
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