照涌大井戸のある田原の里には、こんな伝説がつたわります。
昔々、あるむし暑い日にみすぼらしい身なりのお坊さんが田原の里を通りかかりました。疲れた様子のお坊さんを心配した村の若い娘が声をかけました。
娘:「随分とお疲れの様子ですが、どうされましたか?」
お坊さん:「実は歩きどおしで、とても喉が渇いているのです」
娘:「そうですか。どうぞこのお水を飲んで、元気を出してください」
娘は村の井戸からお水を汲んできて、お坊さんに差し上げました。お坊さんは、差し出されたお水をゴクリと飲み干しました。
お坊さん:「あ〜美味しかった。これで元気になりました。ありがとうございます。お礼によいことを教えましょう。ここを掘れば綺麗な水が湧くはずです。」
そう言い残すとお坊さんは立ち去りました。数日後、あのみすぼらしいお坊さんが弘法大師というとても偉いお坊さんだったことが分かりました。
この時の空海の言葉を頼りに掘った井戸が、照涌大井戸です。
空海は15歳で四国・讃岐国(香川県)から奈良に上京しました。仏教に惹かれた空海は、南都仏教を学び、入唐するまで様々な仏道修行や山林修行に励みました。
清滝街道は、河内(大阪府南東部)と大和(奈良県)を結ぶ古代より多くの人に利用されてきた街道です。清滝街道は、奈良時代の僧侶・行基が開いたとされ、別名「行基みち」ともいわれます。
清滝街道は、照涌大井戸のそばを走っており、空海はこの街道を通って田原の里に入り、伝説を残したと考えられます。井戸から少し足をのばすと、街道沿いの道標にその名残をみることができます。
清滝街道が奈良県側へ入る境界の天野川にかかる橋が高橋です。ここには国境碑が立っています。
そこから、天野川を背にしてくだったところには、法元寺にお祀りされている耳なし地蔵尊を案内する道標があります。
さらに、法元寺の方へ右折せずに進むと、戎川にかかる西川橋のたもとに、墓型の珍しい西川橋道標があります。
江戸時代、照涌大井戸のまわりは田んぼで民家は山手にありましたが、次第にこの周辺の湧水を求めて、照涌大井戸の周辺に転移してきました。
照涌大井戸は、1965年(昭和40年)頃まで地元の人たちの間で、飲料水および生活用水として利用されていました。簡易水道ができる前までは、この地域の家には各戸井戸があり、井戸がある暮らしは生活の中に溶け込んでいました。
その後、近くを流れる天野川の河川改修工事で、井戸が枯れた家もありましたが、照涌大井戸だけは不思議と水が枯れることなく、現在も豊かな水をなみなみとたたえています。
照涌大井戸からは、空海がこの田原の里を訪れてから千年以上もの長い間、きれいな清水が湧き続けています。
このことから、「照れば照るほどよく涌く井戸」という意味で照涌(てるわき)大井戸」と名付けられました。この井戸のおかげで、周辺にある約30戸は水不足に苦しむことがありませんでした。
また、この井戸を中心にした周辺は、照涌といわれています。
井戸から続く細い水路のすぐ先では、湧き水が湧き出しているのを目にすることができます。
照涌大井戸は、現在、近隣に住んでいる方たちの生活用水や田畑用の水、そして、四條畷市からの依頼で、四條畷市の緊急時生活用水として利用されています。
また、照涌大井戸は、地域の人たちが中心となって保存会をつくり、大切に管理・保存されています。保存会が発足したのは、1987年(昭和62年)です。
現在は、綺麗に整備されていますが、保存会が発足する前は雨がしのげる程度の屋根と石仏があっただけでした。井戸のすぐ横にあるのは、保存会発足前からお祀りされていた、弘法大師像とお地蔵様の石仏です。
お地蔵様は、外部からやってくる疫病や災いから村を守るだけでなく、旅人の守護神としても知られています。
目鼻立ちがわからないほど風化した石仏からは、村人や旅人を守護するお地蔵様への信仰と、弘法大師空海と井戸への感謝の気持ちがはるか遠い昔から、この地域で続いてきたものであることを感じさせます。
保存会では、毎年8月の地蔵盆の時期に、井戸に感謝を捧げる水供養をおこなっています。
地蔵盆は、関西で盛んな風習で、神社やお寺のお祭りとは違い、街角で信仰されているお地蔵様のお祭りです。
住所:大阪府四條畷市大字下田原
アクセス:近鉄生駒駅北口から82系統北田原行き奈良交通バス「下田原」下車、徒歩5分
2020年4月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2024/10/6更新)
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