写真:木村 岳人
地図を見る村上城の正確な築城年代は不明ですが、鎌倉時代からこの地を治めていた本庄氏が16世紀初頭に築いたと考えられています。当時は本庄城と呼ばれており、石垣を持たず木柵を巡らせただけの中世山城でした。本庄氏は永禄11年(1568年)に上杉氏へ反旗を翻しており、当時の大手道(城の表通り)があった臥牛山の東側にはその時に整備されたと考えられる虎口(城の入口)や曲輪(平らに整地された区画)、竪堀などの遺構が残っています。
上杉氏と講和してその家臣となった本庄氏は、慶長3年(1598年)に豊臣秀吉の命より上杉氏と共に会津へ移ります。代わりに入城した村上氏は城の改築に着手しましたが、豊臣恩顧だったこともあり江戸時代初頭の元和4年(1618年)に改易。その跡を引き継いだ堀氏の手により近世城郭としての村上城は完成しました。
写真:木村 岳人
地図を見る中世の頃とは異なり、近世の村上城は臥牛山の西側に大手道を設けています。山麓に城主の居館を築き、その西側に曲輪を連ねる梯郭式の構造でした。現在の登城口左側に広がる平場はかつての「城主居館跡」であり、明治維新に至るまで村上藩を治める政庁が置かれていました。
写真:木村 岳人
地図を見る近世に整備された大手道は「七曲道」と呼ばれ、現在も登山道として使われています。その名の通り七回以上曲がる必要がある九十九折の山道ですが、歩きやすく整備されていますのでそれほど苦労することはなく上ることができるでしょう。
写真:木村 岳人
地図を見る登城口から10分ほどで「四ツ門跡」に到達します。ここは西からの大手道と東からの搦手道(城の裏通り)、および北の「三の丸」と南の「二の丸」への道が交差する十字路。かつては四方に扉が構えられており、他に類を見ない極めて変則的な櫓門が存在しました。
写真:木村 岳人
地図を見る四ツ門跡から食い違い虎口の御鐘門跡を抜けて二の丸に出ると、前方に見事な石垣が現れます。この出櫓台から本丸にかけて連なる高石垣は迫力満点で、村上城を代表する光景といっても過言ではありません。特に本丸の石垣はひと際高く積まれており、場所によっては8メートル近くの高さを有します。
村上城の石垣は約10キロメートル北に位置する柏尾の採石所で産出された石材を用いて築かれており、その大部分が「打ち込みハギ(ある程度整形した石材を用いる)」の「布積み(目地が横に通る積み方)」ですが、本丸天守台の一部にはより古い様式である「野面積み(自然石を加工せずに用いる)」の「乱積み(不規則な積み方)」も見られます。
写真:木村 岳人
地図を見るまた本丸入口の石垣には巨石を用いた「鏡石」が嵌め込まれており、登城する人々の目を驚かせてきました。ただし現在は鑑石の前に木が生えており、少々分りづらくなっていますので見落とさないように注意してください。
写真:木村 岳人
地図を見る臥牛山の山頂に位置する本丸にはかつて多門櫓や二重櫓が建ち並んでおり、鉄壁の防御を備えていました。特に城下町から見上げることのできる南西端には三重の天守がそびえており、藩主の威厳を人々に示していました。それらの建物は寛文7年(1667年)の落雷により焼失してしまい、以降は再建されることがありませんでしたが、天守台には今もなお立派な礎石が残されています。
写真:木村 岳人
地図を見る天守台からの眺めは素晴らしいの一言で、城下町はもちろんのこと、天気の良い日には日本海に浮かぶ佐渡島や会津の磐梯山まで遠望できます。まさに地域一帯を統治するにふさわしい立地だと言えるでしょう。
写真:木村 岳人
地図を見る本丸からの帰りは、来た道を戻るのではなく「中世遺構散策コース」を歩くことをおすすめします。本丸の入口側にある埋門(うずめもん)跡から東側の中腹をたどって四ツ門跡へと続く散策路で、本庄氏の時代に築かれた曲輪が数多く、中世山城の雰囲気を色濃く残しています。
写真:木村 岳人
地図を見る中世の曲輪群から四ツ門跡へと上がるその途中には「千貫井戸」という近世の井戸が現存していますので、こちらも忘れずチェックしましょう。5メートル四方の巨大な井戸で、かつてはここで馬を休ませていたことから「馬冷やし場」とも呼ばれています。
このように、村上城には臥牛山の全域に渡って数多くの遺構が残っています。中世からの土の城と、近世になって築かれた石の城の両方を一度に楽しむことができる、まさに一粒で二度おいしい城跡だといえるでしょう。
住所:新潟県村上市本町
アクセス:JR羽越本線「村上駅」から徒歩約25分
2020年7月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2025/2/10更新)
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