比叡山焼き打ち10日前!?大津市歴史博物館で「明智光秀書状」を公開

比叡山焼き打ち10日前!?大津市歴史博物館で「明智光秀書状」を公開

更新日:2020/07/09 14:29

旅人間のプロフィール写真 旅人間 はらぺこライター、旅ブロガー
現在の大津市は、京都に近く、陸路と琵琶湖の湖上水運の拠点として栄えてきました。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主役である明智光秀は、戦国時代、坂本に城を築きます。
大津市歴史博物館の特集展示「明智光秀と戦国時代の大津」では、湖上交通の要であった堅田・坂本・大津の戦国時代の様子や、織田信長の比叡山焼き討ちの10日前に光秀が書いた書状の展示など、他では見られない貴重な資料が展示されています。


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明智光秀をもっと知りたいなら大津市歴史博物館へ

明智光秀をもっと知りたいなら大津市歴史博物館へ

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近江八景のひとつ「三井の晩鐘」でも知られる三井寺の北隣に「大津市歴史博物館」があります。この博物館の常設展示では、歌川広重の近江八景や大津絵、江戸時代の大津の宿場の賑いなど大津の歴史や豊かな文化を紹介しています。

2020年1月から2021年2月中旬まで、常設展示の一部をリニューアルし、特集展示「明智光秀と戦国時代の大津」と題し、光秀関係の資料を多く展示されています。この特集展示では、光秀のほか、戦国時代に大津に関係した人物や出来事が紹介されており、光秀をもっと詳しく知りたい人におすすめです。

特集展示「明智光秀と戦国時代の大津」について

特集展示「明智光秀と戦国時代の大津」について

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この特集展示「明智光秀と戦国時代の大津」では、光秀が活躍した戦国乱世という時代の中で、堅田・坂本・大津がどのような役割を果たしてきたのかが分かりやすく紹介されています。また光秀に関する貴重な資料の他、坂本城の本丸推定地で見つかった出土品なども展示されています。

「近江を制するものは天下を制す」という言葉は有名ですが、東海道や中山道、北陸道など主要な街道が交わる近江(現在の滋賀県)の中でも京に近い湖南は陸路と湖上交通の拠点として繁栄しました。特に坂本や堅田は戦国武将にとって重要な場所となります。この背景が詳しく分かると戦国時代は更に面白くなるでしょう。

盛安寺所蔵「伝・明智光秀公の陣太鼓」&「太鼓田寄進状」

盛安寺所蔵「伝・明智光秀公の陣太鼓」&「太鼓田寄進状」

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坂本一丁目に所在する盛安寺は、かつて別名明智寺と呼ばれ、「明智光秀の陣太鼓」が伝来しています。特集展示「明智光秀と戦国時代の大津」ではこの陣太鼓も展示されています。

この太鼓は光秀との関係性は定かではありませんが、1814年の「近江名所図会」には「明智光秀陣太鼓 世にこれを八剋太鼓と云ふ」とあり、八刻(八剋)は午後2時を指し、時を知らせる太鼓だったと考えられます。ただ、戦乱の世では、敵の来襲を知らせるなど、緊急用として用いられたのでしょう。

また盛安寺所蔵の「太鼓田寄進状」は、太鼓を維持するため田地を寄進した書状になります。

盛安寺所蔵「伝・明智光秀公の陣太鼓」&「太鼓田寄進状」

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この「太鼓田寄進状」には天正11年8月8日付とあり、光秀が亡くなって1年後であることが分かります。この時期は杉原家次が坂本城を担っていましたので、それに伴う太鼓であれば光秀の時代からの太鼓と考えられます。

ちなみに坂本城は、山崎の戦いで光秀が秀吉に敗れ死去した後、明智秀光(明智左馬之助)が火を放ち自害しています。その後、秀吉に再建を命じられた丹羽長秀が城主となり、杉原家次、浅野長吉(長政)と城主は移り、1586年の大津城築城により廃城となっています。

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必見!信長の比叡山焼き打ち10日前の「明智光秀書状」

必見!信長の比叡山焼き打ち10日前の「明智光秀書状」

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展示物の中には明智光秀の直筆による「明智光秀書状」も見ることが出来ます。その中でも特に注目したいのは、1571年9月2日に光秀が、雄琴の土豪和田秀純に出した書状です。これは歴史的大事件となった織田信長による比叡山焼き打ちのわずか10日前のものになります。

明智光秀の役割は、志賀郡の在地土豪を懐柔し、味方にすることだったようで、雄琴の和田や八木がその誘いに応じたことへの礼状がこの書状です。ただ、この懐柔は、比叡山焼き討ちを前提としたもので、「比叡山麓の仰木のことは、ぜひともなでぎり(皆殺し)にしよう」といった物騒な文言が確認できます。

必見!信長の比叡山焼き打ち10日前の「明智光秀書状」

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また、秀吉による湖上を行く船のルールを記した「豊臣秀吉朱印状」も必見です。これは1591年5月に出されたもので、借り船での役儀の禁止や船奉行の判が無い船の取り締まりなど全五箇条となっています。

他にも、戦国武将が堅田の水運力を利用したことが分かる「六角氏奉行人連署奉書」(1559年・1560年)や浅井家家臣の磯野員昌が信長の軍門に下り、丹羽長秀が堅田の対し100艘の船の提供を命じ、その際に明智光秀が護衛を務めたことが記されている「丹羽長秀書状」(1571年)なども展示されています。

これが有名な「明智左馬之助の湖水渡り」

これが有名な「明智左馬之助の湖水渡り」

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NHK大河ドラマ『麒麟がくる』は謎に満ちた明智光秀の物語。信長の重臣としての活躍、本能寺の変、山崎の合戦で敗北といった激動の展開は想像するだけで胸が躍ります。しかし、最後にもう一つ見所が残っているとすれば、それは明智左馬之助の湖水渡りでしょう。

光秀敗死の急報を受け、安土城から坂本城に向かうも敵に阻まれた左馬之助は琵琶湖に騎馬のまま飛び込みます。その姿を見た敵は溺れ死ぬだろうと嘲笑しますが、狩野永徳が墨絵で雲竜を描いた羽織を着用したまま、唐崎の松を目印に泳ぎ切り、坂本城に帰還を果たしたというのは有名な逸話です。

ここで展示されている絵は幕末の写真を参考に明治30年に描かれたもので、色鮮やかで臨場感があり、その時の情景が目に浮かぶようです。ちなみに大津市坂本にある西教寺では、この時に左馬之助が着用していた馬具が展示されています。

戦国ファンは必見!大津市歴史博物館に行こう

信長の比叡山焼き打ちと言えば、教科書にも載っている歴史的な大事件。それに関わる明智光秀の直筆「明智光秀書状」が見られるのは実に貴重です。また「明智左馬之助の湖水渡り」の絵を見た後、琵琶湖を見渡すとそのスケールの大きさに心が躍るはず。

大津市歴史博物館・特集展示『明智光秀と戦国時代の大津』は戦国ファンには必見ですよ。

尚、2021年2月7日まで大津市内4つの拠点(大津市歴史博物館・禅明坊光秀館・西教寺・滋賀院門跡)では、「びわ湖大津・光秀大博覧会」を開催しています。NHK大河ドラマ『麒麟がくる』を見ている方に魅力あふれる内容となっています。

2020年7月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2020/06/16 訪問

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