幕末からの超貴重な資料!青森県十和田の太素塚「新渡戸記念館」

幕末からの超貴重な資料!青森県十和田の太素塚「新渡戸記念館」

更新日:2020/12/10 13:02

大里 康正のプロフィール写真 大里 康正 旅する光と影の写真家、タイと台湾に詳しい旅作家
江戸時代までの三本木原は、稲作に適さない不毛の大地でした。ここに人工河川「稲生川」を通し、現在の十和田市の発展の基礎を作ったのが南部盛岡藩士の新渡戸傳と息子の十次郎、孫の七郎です。

「新渡戸記念館」は太素塚と呼ばれる敷地内にあり、ここは傳にゆかりの場所です。記念館の展示は一階が三本木原開拓史、そして傳の孫である新渡戸稲造に関する現物展示が二階に!貴重な数多くの原本を展示する必見の記念館なのです。

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鳥居に見える門から歴史ある新渡戸記念館へ進む

鳥居に見える門から歴史ある新渡戸記念館へ進む

写真:大里 康正

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十和田市のルーツともいえる史跡の太素塚は、市街地からやや東側に位置しており、太素公園としても市民の憩いの場となっています。ここは人工河川である稲生川を苦難の末に通した新渡戸稲造の祖父、傳(つとう)が自ら墓所と定めた場所ともいわれ、旧五千円札の肖像となった新渡戸稲造が何度も訪れた場所なのです。

太素塚の正面には鳥居に見える門があります。太素塚では明治になると、この地を神社にする運動が起きますが実現しませんでした。しかし先に鳥居が作られていたことから、これを門とした歴史があります。門の高さは17.5mあり、近隣地域の中でも特別に大きな門。狛犬が配置されていることからも鳥居にしか見えない門を通り、中に入りましょう。

鳥居に見える門から歴史ある新渡戸記念館へ進む

写真:大里 康正

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門を入るとそこには、新渡戸傳、息子の十次郎、そして孫の稲造の銅像があります。手前の左側が新渡戸稲造であり、右の柵の中が開拓の祖である傳。一番奥が十次郎となります。

稲造の銅像は昭和58年に、没後50年を記念して制作されました。傳の銅像は昭和33年に開拓百周年を記念して作られたもの。そして十次郎の銅像は平成元年となります。同じ時期に作られたものではなく、それぞれ歴史があるのです。

鳥居に見える門から歴史ある新渡戸記念館へ進む

写真:大里 康正

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銅像の横を通り、左側に進むと歴史ある建物「新渡戸記念館」が残されています。この建物は新渡戸稲造が私設・新渡戸文庫を作った場所の跡地に昭和40年に十和田市と新渡戸家の協力により、当時の最新の建築技術で建てられました。

設計者は東大名誉教授、故生田勉氏。建築家であり建築学者でもあった生田氏が思いを込め、後世に残す建物としてこの記念館を設計したのです。そのデザインの美しさは今でも高い評価を受けています。

ちなみに記念館の前身となる新渡戸文庫では、新渡戸稲造が蔵書7000冊を寄贈しています。その理由は祖父が残した偉大な足跡の地である十和田、そして祖父が眠る太素塚に文庫を建てることによる地域の文化向上の思いが込められたもの。それらは今でも新渡戸記念館で管理、保管されているのです。

新渡戸記念館の一階は、三本木原開拓資料室

新渡戸記念館の一階は、三本木原開拓資料室

写真:大里 康正

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現在の十和田市付近はかつて、三本木原と呼ばれていました。稲作に適さず、当然ながら人口は少ないものの馬の放牧地としての歴史があったのです。この地に南部盛岡藩士であった新渡戸傳が人工河川を引く計画を立て、実行したのです。

息子の十次郎は、傳を補佐しながら難工事での経験を積み、後の更なる水路の拡張を試みますが、志半ばで没します。そして傳の孫である七郎(稲造は七郎の弟)は父の十次郎とともに三本木開発に従事した経緯があります。

新渡戸記念館の一階は、三本木原開拓資料室

写真:大里 康正

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資料室内には数多くの貴重な当時の資料が残されています。写真のものは三本木開墾区域内略図で当時の都市計画図となります。三本木だけではなく、太平洋側まで広く調べたことが分かる貴重な資料です。

新渡戸十次郎は十和田市の基礎を作った人物です。碁盤の目状に町が作られている十和田市ですが、最初に計画したのは十次郎なのです。これは京都を模したものといわれていますが、1860年に碁盤の目状の都市計画を具体的に行っており、これは近代都市計画の先駆けともいわれています。当時の絵図が残されていますので、こちらもじっくりと見学しましょう。

新渡戸記念館の一階は、三本木原開拓資料室

写真:大里 康正

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また、新渡戸家に代々伝わる武具の展示もありますので、見逃さないようにしてください。

二階、新渡戸稲造資料室

二階、新渡戸稲造資料室

写真:大里 康正

階段を上がり二階へ。こちらでは新渡戸稲造の書や実際に使われていた品々など、貴重な資料が展示されています。

二階、新渡戸稲造資料室

写真:大里 康正

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新渡戸稲造は岩手県盛岡市に十次郎の三男として生まれています。幼名は稲之助。のちに稲造となりますが、この稲は祖父の傳が苦難の末に通した人工河川の稲生川の稲から命名されるのです。

稲生川という川の名前は南部藩主の南部利剛によるもので、そこには稲が実り多くなるようにという思いが込められていました。

二階、新渡戸稲造資料室

写真:大里 康正

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稲造は昭和59年に「五千円札の顔」となりますが、元になった肖像原画はこの新渡戸記念館にあるものを使っているのです。展示コーナーでは最初に発行されたA〇〇〇〇〇一Bの五千円札も展示されており必見です。

太素塚と新渡戸稲造

太素塚と新渡戸稲造

写真:大里 康正

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記念館の正面から左に進むと、新渡戸傳が生前から墓所と決めていたとされる場所があり、そこには太素塚という石碑があります。

太素塚と新渡戸稲造

写真:大里 康正

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この太素とは傳の号となります。石は大阪で購入した摂州御影石で、大阪から船で青森県野辺地まで運び、今度は大八車でここまで運搬されたもの。新渡戸稲造は複数回太素塚に来ていますが、最後は昭和8年となり写真が残されています。

太素塚と新渡戸稲造

写真:大里 康正

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太素塚の左側が十次郎の墓碑、そして右側が稲造の墓碑です。

稲造が太素塚を最後に訪れた昭和8年ですが、同年の10月15日(日本時間の16日)、カナダのビクトリアで逝去(71歳)しました。

生前の新渡戸稲造は世界的に有名な名著「武士道」を書き、台湾総督府では台湾糖業を振興させます。国際連盟事務次長まで務めています。

彼が尊敬して止まなかった祖父の傅、父の十次郎に深い縁のある太素塚にも墓碑をという有志の努力により、カナダから稲造の遺髪が届けられ、墓所に収められているのです。

人工河川「稲生川」を引くことで十和田市の発展の基礎を作った新渡戸傳。新たな水路計画から十和田市の都市計画を行い、基盤整備の立役者である十次郎。そして世界で活躍しお札にもなった新渡戸稲造に関係するそして太素塚と新渡戸記念館で、幕末からの歴史を体感し、貴重な当時の資料や品々を観光してみてはいかがでしょうか。

最後に、近隣地域での観光情報です。新渡戸傅の息子の十次郎に関わる重要な史跡「幻の穴堰」は同じ十和田市にあります。また十次郎が幕末に測量をしている「三戸城」や三戸に隣接する南部町には日本一の三重塔がある「法光寺」も行ってみたい観光地です。ミステリースポットとして新郷村には「キリストの墓」があり、足を延ばして十和田湖休屋で長い歴史を誇る「十和田神社」に参拝してみてはいかがでしょうか。

詳細は下記の関連MEMOを参照のうえ、旅行の参考としてみてください。

新渡戸記念館の基本情報

住所:青森県十和田市東三番町24-1
電話番号:080-5578-5939、0176-23-4430
アクセス:青い森鉄道八戸駅からバス約40分

2020年12月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2020/07/02 訪問

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