写真:菊池 模糊
地図を見る信貴山(標高437m)は奈良県と大阪府の県境の生駒山地の南端部にあり、山名は、聖徳太子が物部守屋を攻めた際に毘沙門天が出現し、太子が「信ずべし貴ぶべし」と述べたことに由来します。南側山腹には大寺院である信貴山真言宗朝護孫子寺が建っており、信仰の山であるとともに、登りやすいハイキングコースとして親しまれています。
大和と河内を結ぶ要衝にあることから、古くから山城があり楠木正成の築城伝承もあり、戦国時代には、松永久秀による信貴山城が築かれ重要軍事拠点となりました。
写真は、登山口となる信貴大橋から北を見た景色で、右奥の尖った山が信貴山の雌岳、その奥に覗いているのが雄岳です。なお、赤い橋は「開運橋」トレッスル橋脚を用いたカンチレバー橋で、その形式としては現存する日本最古のものとして国の登録有形文化財となっています。
写真:菊池 模糊
地図を見る信貴山に登るには朝護孫子寺の境内を通り、本堂横にある信貴山城跡という標識に従って曲がります。
ここから上は、戦国時代に信貴山城があった場所で、雰囲気が変わります。松永久秀は、主君三好長慶に命じられ大和支配に乗り出し、1560年、信貴山城に入り拠点とします。以後、敵に奪われることがあったものの、基本的に久秀の軍事拠点として機能しました。そして1577年、信長に離反した久秀はここ信貴山城に籠城し、織田信忠率いる大軍に攻められ落城。久秀は自刃したのです。
写真:菊池 模糊
地図を見るここからは山道ですが、現在は頂上に朝護孫子寺の空鉢護法堂があることから、階段の山道が整備されており、スニーカーでも安全に登れるハイキングコースになっています。ただ結構きつい山道で、戦国時代に高齢でありながら常時麓から通ったとされる久秀は相当の健脚だったのかと想像されます。
写真:菊池 模糊
地図を見るしばらく登ると鞍部に到達し、そこを左側に曲がり雌岳をめざします。雌岳登山路は、写真のようにあまり整備されていませんが、スニーカーさえ履いていれば大丈夫ですので、注意して数分登ってください。戦国時代の雰囲気をそのまま残しているようで、貴重な登山体験ができます。おそらく、こんな場所で久秀の最後の合戦が行われたのでしょう。
写真:菊池 模糊
地図を見る雌岳頂上は長方形の細長い敷地で、平らな尾根がのびています。ここに、松永久秀は曲輪を作り、配下の代官である宮部与助らの細長い屋敷を配置しました。現在の平らな地形は、久秀が雌岳頂上部を削って屋敷を建てられるように造成した可能性があります。ここは、城下を管轄する代官屋敷地であるとともに、雄岳にあった天守手前の重要な防衛線だったのです。
写真:菊池 模糊
地図を見る鞍部に引き返し、こんどは雄岳へ向けて登りましょう。途中に、南側に開けた場所があり、眺望が見事。手前から、二上山・岩橋山・大和葛城山・金剛山と続く金剛葛城山系の山並みが重なって一望できます。
写真:菊池 模糊
地図を見る雄岳頂上の下の広場には信貴山城址の碑と説明看板があり、さらに登ると現在は空鉢護法堂が建っています。この頂上に久秀が四階櫓を造成したとされます。これは伊丹城についで日本で2番目に建てられた天守で、織田信長による安土城もこの天守を参考にした可能性大。まさに、久秀のユニークな発想と築城の才が偲ばれる場所です。
写真:菊池 模糊
地図を見る頂上からの景観は素晴らしいもの。久秀が築いた天守は四階建てですから、当時はさらに雄大な景色が望まれたと想像されます。東から南には雌岳の下に城下町が広がり、その向こうに大和平野が一望。南から西にかけては大和川が西流し、河内平野が広く展開。西から北にかけては、和泉・摂津から山城方面も遠望できたことでしょう。久秀はここ天空の城から天下を見ていたのかもしれません。
写真:菊池 模糊
地図を見る雄岳頂上を下り分岐標識から北へ進みます。ここから先には放射状に尾根がのびており、五本指の手を広げたような形で尾根上曲輪が造営されていました。南北880m、東西600mにわたって展開する奈良県下最大規模の中世城郭跡です。
特に北へのびる主尾根上には5段の広い削平地が曲輪群を構成し、城の中心的役割を果たしていました。このあたりは、信貴山城址保全研究会により整備され、散策しやすくなっています。
写真:菊池 模糊
地図を見るしばらく急な道を下ると、割と広い削平地があり、立入屋敷跡の看板標識があります。久秀の家臣で信貴在城衆の立入勘助の屋敷があった場所で、雄岳から北へのびる主尾根上部にあり、下にある松永屋敷を防衛する曲輪がありました。
ここは、現在は西側へ高安山や弁財天の滝方面への登山ルートがある分岐点にもなっています。
写真:菊池 模糊
地図を見る立入屋敷跡の北すぐにさらに広い削平地があり、松永屋敷跡の看板標識と木製の武者像があります。堅牢な土塁が残り東側には虎口という厳重な出入り口跡もあります。このあたりは、城の最重要部分で、城主たる久秀が居住していた場所と思われます。
写真:菊池 模糊
地図を見る久秀は大軍の総攻撃を50日間も耐え抜き籠城し、最後は城に火をかけて切腹したとされます。まさに、ここが松永久秀の終焉の地なのです。平蜘蛛茶釜に火薬を入れ身体にくくりつけ城もろとも爆死したというのは第二次大戦後つくられた俗説で、当時の記録にはありません。
久秀という人物は「主家乗っ取り」「将軍弑逆」「大仏殿焼き討ち」の三悪をなした戦国の梟雄とされてきましたが、これは江戸中期に書かれた『常山紀談』により世間に広がった事実無根の逸話です。現在、研究者の間では、こうした久秀悪人説は覆され、徐々に久秀の業績が見直されつつあります。
写真:菊池 模糊
地図を見る立入屋敷跡に戻り、同じ道を辿らずに、西へ下ります。しばらく行くと高安山方面へ行く道との分岐点に出ますので、間違えないよう左の弁財天の滝への道を選びましょう。この道は石畳になっており、下りの場合とても滑りやすいので、十分に注意してください。
写真:菊池 模糊
地図を見る山道を下りきると弁財天の滝に到着します。小さな滝ですがマイナスイオンいっぱいで清涼感があります。春から夏にかけてはイトトンボが多く、花ではユキノシタが咲き乱れ、野鳥のキセキレイが年中見られる自然豊かな場所です。ここからは道なりに平坦な下り道を行けば登山口の朝護孫子寺付近に至ります。
写真:菊池 模糊
地図を見る下山後、時間が許せば信貴山麓の三郷町の立野簡易郵便局横にある松永久秀の供養塔に参ってください。これは地元の有志の方々が久秀を顕彰し供養するため建てたものです。「嗚呼義と情そして智謀の人ここに永眠さる」とあります。
こうした久秀の業績を見直す動きは研究者の間でも広がっています。書籍では戦国期を専門とする歴史学者天野忠幸氏の『松永久秀 歪められた戦国の"梟雄"の実像』『松永久秀と下剋上』と金松誠氏の『松永久秀』に最新の久秀研究の成果が示されています。
小説としては今村翔吾氏の第163回直木賞候補作『じんかん』が久秀を主人公とする大傑作。TVでは『歴史秘話ヒストリア』で新たな久秀像が取り上げられ、大河ドラマ『麒麟がくる』でも脇役ながら従来の久秀とは一味違った演出がなされています。
ぜひこうした久秀の再評価の機運が高まった今こそ、久秀最期の地「信貴山城」を訪れ戦国時代の天空の城の雰囲気を味わってください。
アクセス:信貴山頂上へは登山口の信貴大橋から徒歩約40分
信貴大橋へは、JR・近鉄 王寺駅から奈良交通バス「信貴山門」ゆき約22分「信貴大橋」下車すぐ または 近鉄 信貴山下駅から奈良交通バス「信貴山門」ゆき約15分「信貴大橋」下車すぐ
車の場合は、国道25号線「三室」交差点より約10分 または 阪奈道路より信貴生駒スカイライン経由で「信貴山門料金所」よりすぐ(信貴大橋・開運橋近くに有料駐車場あり)
2020年8月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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