続発する怪奇現象!斉明天皇の崩御をめぐる福岡県朝倉市の旅

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続発する怪奇現象!斉明天皇の崩御をめぐる福岡県朝倉市の旅

続発する怪奇現象!斉明天皇の崩御をめぐる福岡県朝倉市の旅

更新日:2014/06/06 19:09

乾口 達司のプロフィール写真 乾口 達司 著述業/日本近代文学会・昭和文学会・日本文学協会会員

斉明天皇といえば、大化の改新の功労者として知られる中大兄皇子の母親として知られています。しかし、その斉明天皇がいつ、どこで、どのように崩御されたか、ご存知ですか?『日本書紀』をひもとくと、実は崩御の直前、天皇には数々の怪奇現象が襲い掛かっているのです。天皇さえも悩ました怪奇現象とは、いったいいかなるものか?今回は福岡県朝倉市に残る斉明天皇ゆかりの地をめぐり、その戦慄すべき事態をご紹介しましょう。

斉明天皇の陵墓!?恵蘇八幡宮の境内に残る御陵山

斉明天皇の陵墓!?恵蘇八幡宮の境内に残る御陵山

写真:乾口 達司

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斉明天皇の陵墓は、現在、宮内庁によって奈良県高市郡高取町にある越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)に治定されています。斉明天皇陵から東方へ数キロ離れたところに位置する牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)が、近年の発掘調査の結果、斉明天皇の真の陵墓ではないかと騒がれたことを記憶している方も多いでしょう。

しかし、今回、ご紹介する恵蘇八幡宮裏手の御陵山は、上で挙げたいずれの陵墓とも異なっています。写真は御陵山の中央部に位置する斉明天皇御殯斂地(ごひんれんち)。殯斂地とは御遺体を本格的に埋葬するまでのあいだ、仮に安置するところ。そうなのです。斉明天皇は、ここ、朝倉の地で崩御され、後になって、当時、都の置かれていた奈良の地に埋葬されているのです。

喪に服すために設置された木の丸殿跡(恵蘇八幡宮)

喪に服すために設置された木の丸殿跡(恵蘇八幡宮)

写真:乾口 達司

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では、本来、奈良の都にいらっしゃるはずの天皇が、なぜ、奈良から遠く離れた福岡・朝倉の地にいらっしゃったのでしょうか?その謎を解く鍵は、当時の朝鮮半島情勢にあります。

西暦660年、唐が朝鮮半島に侵攻。それにより、長年にわたって日本と深いつながりを保って来た百済が滅亡します。天皇は百済の復興運動を後押しすべく、救援軍を編成。陣頭指揮をとるため、皇太子の中大兄皇子らを引き連れて、みずから九州へと赴いたのでした。天皇が大本営となる朝倉の地に朝倉橘広庭宮を造営したのは、661年5月のこと。しかし、わずか2ヵ月後の7月24日、天皇はこの地で崩御されました。

中大兄皇子は御遺体を上で紹介した御殯斂地に安置した上で、木皮のついたままの丸木の柱を組み立てただけの簡素な建物にこもり、喪に服したといわれています。皇子のこもった小屋はその形状から「木の丸殿」と呼ばれ、御陵山のふもと、写真の恵蘇八幡宮境内に設置されたと伝わります。

次々に起こる怪奇現象!葬列を見送る鬼がいたとされる麻底良山

次々に起こる怪奇現象!葬列を見送る鬼がいたとされる麻底良山

写真:乾口 達司

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注目したいのは、天皇崩御の前後に数々の怪奇現象が起こっていることです。『日本書紀』によると、天皇が朝倉橘広庭宮に遷った折、朝倉社の木を切り払って宮殿を造営したため、神が怒って御殿が破壊されています。さらに宮中に「鬼火」が出現。大舎人や諸々の近侍が病に倒れ、そのまま死んでしまうものも多かったとも記されています。さらにショッキングなのは、崩御の翌月、御遺体を磐瀬宮へ移す記事のなかに次のような出来事が記されている点です。「是夕於朝倉山上有鬼、着大笠臨喪儀、衆皆嗟怪」。つまり、御遺体を運ぶ日の夕刻、朝倉山の山頂に大笠を着た鬼が現れ、葬列を見下ろしていたというのです!

朝倉市に本籍地のあった小説家の後藤明生は『八月/愚者の時間』(作品社/1980年刊)のなかで上の記事に注目し「斉明天皇の死が、天皇制の事情の中で、何かの区切りになったのではなかろうか。何かがそこで一つ滅亡し、変化したのではなかろうか」と述べていますが、あろうことか、天皇に数々の怪奇現象がふりかかるというエピソードは『日本書紀』のなかでも異例中の異例であり、その2年後、天皇によって編成された百済救援軍が白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗するという凄惨な出来事を踏まえると、きわめて暗示的な内容であるといえるでしょう。

ちなみに「朝倉山」は恵蘇八幡宮の東方に位置する麻底良山(まてらさん)のことだといわれています。写真は御陵山の脇から撮影したものですが、画面の右手に見えるのが、麻底良山。ここから大笠を身にまとった鬼が天皇の葬列を見下ろしていたかと思うと、おどろおどろしいですよね。

朝倉橘広庭宮か?朝闇神社裏手の「橘廣庭宮之蹟」碑

朝倉橘広庭宮か?朝闇神社裏手の「橘廣庭宮之蹟」碑

写真:乾口 達司

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わずか2ヶ月あまりであったとはいえ、斉明天皇が暮らした朝倉橘広庭宮は、当時、日本の中心地でした。その具体的な所在地ははっきりしていませんが、朝倉市では、朝倉の名の由来となった朝闇神社の付近一帯をその候補地として挙げています。神社の裏手には「橘廣庭宮之蹟」と刻まれた写真の石碑が立つほか、福岡県の史跡に指定されている長安寺廃寺跡などが点在しており、当地が古代から数々の歴史を堆積させたスポットであることは間違いありません。

叶えられぬ思いに絶望した老人の悲劇!朝倉橘広庭宮時代の逸話を描いた謡曲『綾の鼓』ゆかりの桂の池跡

叶えられぬ思いに絶望した老人の悲劇!朝倉橘広庭宮時代の逸話を描いた謡曲『綾の鼓』ゆかりの桂の池跡

写真:乾口 達司

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朝倉市立大福小学校の東側、桂川に隣接した一角には、桂の池跡と呼ばれる池の跡が残されています。当地は宝生流の謡曲『綾の鼓』ゆかりの地。物語は斉明天皇が朝倉橘広庭宮に滞在していたときのエピソードにもとづいています。主人公は庭掃き番の老人・源太郎。源太郎は宮廷につかえる一人の女御に恋心を抱きますが、女御は打っても鳴り響かない綾の鼓を源太郎に与え、その思いを拒絶。絶望した源太郎は桂の池に身を投じたのでした。

当時の桂の池はいまでは想像もできないほど広大な規模を誇っており、女官たちが折々に舟遊びなどに興じていたといわれています。斉明天皇の朝倉時代、宮廷の女官たちがどのような暮らしを送っていたのかをしのぶためにも、他のスポットとあわせて訪れてみましょう。

おわりに

いまから1300年以上も前の話であるにもかかわらず、斉明天皇にゆかりのスポットがいまだに点在していること、おわかりになったのではないでしょうか。その崩御の背後にいったいどのような歴史的な事実があったのか、「鬼」とはいったい何者のことを指しているのか、そして、その死は単なる偶然だったのか。想像は尽きませんが、その真相を探求するためにもご自身の足で実際に朝倉の地を訪れ、斉明天皇崩御の謎に挑んでみてはいかがでしょうか。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/03/27 訪問

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