写真:村井 マヤ
地図を見る写真は、国道432号から撮影した月山富田城の本丸付近です。分かりにくいですが、こんもりとした山の頂が少し開けて見えますよね。今回の旅の舞台は、戦国の名城・月山富田城です。近年、整備が進み以前よりずっと登城しやすくなりました。
月山富田城は、室町時代に出雲国を統一し、戦国大名となった尼子氏が出雲支配の拠点とした城です。尼子氏が毛利氏に滅ぼされた永禄9(1566)年まで、尼子氏の城でした。
この写真を撮影した国道432号付近には、戦国時代に毛利元就が月山富田城を攻めた「第二次月山富田城の戦い」の際に毛利の本陣が置かれました。
写真:村井 マヤ
地図を見る写真は、飯梨川(地元では富田川)越しに城跡を見ています。月山と書かれた木製看板の向かって左上・写真中央辺りが三の丸です。ここから山頂付近が望めるので、ワクワクした気持ちになりますよ。丁度、写真の左端に写りこんでいる富田橋を渡ると、「御子守(おこもり)口」という場所で、毛利軍が攻めた際には御子守口付近に尼子義久が陣取り、元就が川を越えて攻め込みました。
写真:村井 マヤ
地図を見る遠景でも楽しめる月山富田城ですが、やはり実際に歩いてみるとさらに月山富田城の魅力を実感しますよ。写真は、安来市立歴史資料館です。まずはここに立ち寄って地図や資料を手に入れます。綺麗に整備されてはいますが、天候などで状況が変わっているかもしれません、事前にその点を確認してより安全に楽しみましょうね。登城口が2つありますので、ご自分の見たい箇所によって調整しましょう。
資料館の上に広がるのは、最も城下に面している「千畳平」という曲輪です。写真では草に覆われていますが、もう少し近づくと石垣が築かれているのが確認できます。
写真:村井 マヤ
地図を見る写真は、「大土塁」の入口です。この奥を歩いてくるっと巡り次の遺跡である「山中御殿」へ続きます。月山富田城散策に自動車使用の場合は、麓に駐車してください。駐車場は全部で4カ所あります。基本的には広瀬絣センター前が便利です。そして歴史資料館に立ち寄ってから出発するのが、一番安全ですよ。
「大土塁」は、全長約130m、最大幅約20mの富田城内では最大規模の土塁です。「山中御殿」への侵入を防ぐ目的で築かれました。
写真:村井 マヤ
地図を見る写真は、「山中御殿」と呼ばれる城主の居館跡と推測される場所で、周囲を石垣で囲まれた広大な曲輪です。写真の山肌にジグザクとした道が見えますか?草が伸びてきて分かりにくいですが、「七曲り」と呼ばれる難所です。現在では階段があるのでそんなに苦ではありませんが、戦国時代は大変だったでしょうね。しかも「七曲り」しか本丸に行く手立てはないので、ここを突破しなければ本丸は落とせないのです。
写真:村井 マヤ
地図を見る写真では、山中御殿の復元された石垣や、七曲りに続く道(写真中央)、「塩谷虎口」(写真右端)と呼ばれた登城口などを見て取れます。この城を攻め込む際、この「塩谷口」「御子守口」「菅谷口」の3つからしか攻めませんでしたが、塩谷虎口は塩谷口へと下りる虎口になります。「塩谷虎口」には、石垣で作られた階段などが残されています。
永禄5(1562)年4月に始まった戦いの際に毛利氏は、尼子氏の善戦によりやむなく撤退しました。その後の過酷な兵糧攻めによって永禄9(1566)年に尼子義久が富田城を開城し、難攻不落の山城は毛利氏の城となりました。
写真:村井 マヤ
地図を見る七曲りを登って行くと、途中には「親子(しんし)観音」と呼ばれている来待(きまち)石製の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。伝承では、堀尾家お家騒動の際に処罰された堀尾河内守(野々村河内守)とその息子・堀尾勘解由の墓とされてきました。現在では、その後の詳しい調査で、勘解由1人の墓であると推定されており、騒動もあくまでも物語ではないかと考えられています。また、「山吹井戸」と呼ばれる年中水が枯れることのない井戸も七曲りの途中にありますよ。
堀尾吉晴と息子・忠氏が富田城に入るのは、慶長5(1600)年の関ケ原合戦後です。勘解由は、吉晴の娘とその婿堀尾河内守の息子です。勘解由は、慶長13(1608)年12月に京都で亡くなり、亡骸は京都の堀尾家菩提所春光院に葬られた可能性があります。宝篋印塔だけが富田城にある理由は謎ですが、城内にお墓があることを考えると謀反に関わって亡くなったとは考えられませんね。
写真:村井 マヤ
地図を見る写真は、七曲りの途中から眼下に広がる山中御殿などを撮影したもの。富田城の北側の要所や広瀬の町まで見渡せます。眺めは最高ですが、なかなかの難所です。
写真:村井 マヤ
地図を見る写真は、七曲りを登り切ると西側に現れる「西袖ヶ平」という曲輪です。富田城の魅力は、やはり山頂主郭部にありますので、頑張って上って下さいね。
写真:村井 マヤ
地図を見る写真は、本丸から二の丸、三の丸方面を撮影しています。本丸からの眺めは素晴らしく、中海、島根半島、弓浜半島まで見渡せます。尼子氏支配当時の交通・経済・軍事の重要な拠点が一望でき、堅い守りの城だったことが分かります。
写真:村井 マヤ
地図を見る本丸は、山頂部分のほぼ半分を有し、細長く草原が広がっています。天気の良い日は青空と緑が調和し、とても美しい曲輪です。ここまで来ると月山富田城に夢中になっていますよ。
写真:村井 マヤ
地図を見る写真は、勝日高守神社で、富田城歴代の城主の信仰が篤く、尼子氏は特に熱心に崇敬しました。この神社には面白い逸話があります。保元年間に平家の武将・藤原景清が月山に築城の際に、山頂から弓を放ちました。その弓が八幡山の松の木に当たったのでそこに神社を移しました。それが「勝日神社」です。八幡信仰が盛んになり、八幡宮が大きくなり現在では、富田八幡宮の境内社として「勝日神社」が鎮座しています。現在でも景清が射止めた松の木(五代目)がありますよ。
写真:村井 マヤ
地図を見る写真は、「花の壇」と呼ばれる曲輪です。当時は、侍所で御子守口からの城内道が見渡せる防御拠点でもありました。発掘調査で2棟の建物跡が見つかり、現在ではそれを復元して公開しています。花の壇から七曲り、山頂の曲輪を望めます。
写真:村井 マヤ
地図を見る写真の銅像は、山中鹿介幸盛祈月像です。尼子家再興のために尽力した人気の戦国武将ですよね。この銅像前を通って、「太鼓壇」と言われている太鼓櫓跡へと続きます。この銅像の手前には「奥書院」があった広場も通ります。
写真:村井 マヤ
地図を見る太鼓壇を抜けて「千畳平」へと行く途中に「馬乗馬場」(写真)があります。城下に面した長大な曲輪で曲輪の前半部には周囲に石垣も築かれています。この馬場は、今にも馬が駆けだしそうな雰囲気を漂わせ、素敵な曲輪です。
「千畳平」は、段落1-3の歴史資料館の上にある広大な曲輪です。周辺から大量の瓦が出土していることから、城下に張り出した部分に櫓が建てられていた可能性があります。下を見ると、「安来市立歴史資料館」、隣接する「広瀬絣センター」の屋根や駐車場、飯梨川などが眺められます。
月山富田城への登り口として現在使用できるのは、「御子守口」と「広瀬絣センター」の裏の道です。今回は、大土塁からスタートし最後に千畳平まで見て、再び山中鹿介幸盛像の前に戻り、そこから駐車場に通じる道まで降りるコースです。イレギュラーなコースですが全てを網羅できます。どう巡るかは、体力と時間で判断すると良いでしょう。まずは、歴史資料館で地図と資料をもらって、館の方に相談してみてくださいね。
月山富田城跡は、心に残る山城で、もう1度訪れたくなる名城です。
住所:島根県安来市広瀬町帳752(安来市立歴史資料館)
電話番号:0854-32-2767(安来市立歴史資料館)
アクセス:山陰道安来ICから車で約20分
JR岡山駅から安来駅まで2時間15分(特急やくも)、安来駅からイエローバス・観光ループ「月山入口」下車、約30分
米子空港から車で約1時間
2020年8月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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