天下人信長の城下町「安土」伝セミナリヨ跡などを歩こう

天下人信長の城下町「安土」伝セミナリヨ跡などを歩こう

更新日:2020/08/12 13:49

塚本 隆司のプロフィール写真 塚本 隆司 ぼっち旅ライター
安土は、戦国時代に最も華やぎながらも短命に終わった城下町。在りし日の面影を求め、安土でまち歩きをしてみませんか。
今も謎とされる「本能寺の変」と「安土城の焼失」、近江八幡城下への移転で、まさに夢幻のごとく姿を消した安土の城下町。安土城跡や資料館だけではなく、町を歩けば「西の湖」や「伝セミナリヨ跡」など、当時の面影がかすかに見えてきます。
安土のまち歩きを、追体験してもらえるように紹介します。

他の町を凌駕していた安土の町

他の町を凌駕していた安土の町

写真:塚本 隆司

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安土に初めて天主(天守)をもつ革新的な城が登場したように、安土の町もまた革新的でした。「城下町」という言葉はまだなく「山下町(さんげまち)」と呼ばれ、「楽市楽座」などの経済政策で大いに賑わいました。

イエズス会宣教師のルイス・フロイスは、安土の町について「全日本で最も気品があり(中略)位置と美観、建物の財産と住民の気高さにおいて、断然、他のあらゆるまちを凌駕していた」と評しています。

他の町を凌駕していた安土の町

写真:塚本 隆司

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信長が安土に城を築くと決めたのは、東海道や中山道、北陸道など主要な街道が交わる陸上交通の要所だったことに加え、琵琶湖の水運に目を付けたため。「近江を制するものは天下を制す」と言われるように、その拠点として安土が選ばれました。

安土城下を通る「下街道」は、中山道の裏街道でしたが、信長は安土の町を発展させるために「この街道を使うように」と触れを出し、発展させていきます。
後に、徳川家康が関ケ原で勝利し凱旋に使ったことから、縁起のいい将軍下向時の特別な道として、大名すら通させなかったといわれる。また、朝鮮通信使が利用したことから「朝鮮人街道」とも呼ばれるようになりました。

他の町を凌駕していた安土の町

写真:塚本 隆司

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下街道は安土駅前で、西から北へと折れ、安土城跡へと続きます。観光案内所マップを手に入れ、まずは下街道を西へと歩みを進めましょう。安土の町は、案内板が各所にあるので、わかりやすく歩きやすいです。

3分ほど行けば「安土楽市楽座館」があります。観光の拠点として、またチャレンジショップを開くなど、地域振興の役割を担っています。

安土は湧水の町だった

安土は湧水の町だった

写真:塚本 隆司

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安土の町の西側を歩けば、意外なことに気がつきます。近江八幡が湧水を生かした水郷の町であるように、安土も湧水が豊富なのです。

「梅の川」は、信長が好み、茶の湯に用いた湧水と伝わっています。残念なことに、現在は味わうことなどできる状態ではありませんが、少し西にある「音堂川(おんどがわ)湧水」を見れば、その澄んだ美しさに驚くはずです。

安土は湧水の町だった

写真:塚本 隆司

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音堂川湧水の涼しげで心地が良いこと。コイも泳いでいます。このあたりには、川魚の加工所や料理屋があり、湖畔の城下町らしさを感じることができます。

安土は湧水の町だった

写真:塚本 隆司

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音堂川の流れに沿って歩みを進めると、常浜(じょうはま)水辺公園へとでます。常浜は、室町時代には観音寺城(六角氏)の外港として栄え、木村城(常楽寺城)があったと伝わっています。

信長の時代になると物資輸送・交易・軍事拠点の中心的な役割を担う港に発展。昭和初期まで船の往来があり、琵琶湖を周遊する蒸気船の寄港地になっていました。
今は、気持ち良く散策ができる公園になっています。

下街道を歩きながら安土城跡へ

下街道を歩きながら安土城跡へ

写真:塚本 隆司

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もうひとつ紹介したい湧水があります。常浜水辺公園から東へすぐのところ、円満地蔵尊の足元から湧く「北川(喜多川)湧水」です。足湧(あしゆ)が設けられ、足を霊水に浸して邪心を洗い流し、清らかな心で円満地蔵に御加護をお祈りすれば、家族円満・夫婦円満の喜びと幸せが頂けるといいます。

下街道を歩きながら安土城跡へ

写真:塚本 隆司

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北川湧水からさらに東へ。細い路地が入り組み、観光案内所でもらった地図では役に立たちませんが、方向さえ間違わなければ大きな道(県道199号)にでます。

信長が整備した下街道は、安土駅前から真っすぐ延びる県道199号を、安土コミュニティーセンターで東へと折れます。さらに、朝鮮人街道の石碑がある角で北へ、県道211号を越えて進むと大きな鳥居が見えてきます。

下街道を歩きながら安土城跡へ

写真:塚本 隆司

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この大鳥居は、この先にある活津彦根(いくつひこね)神社のものです。下街道は鳥居の手前で、また東へと折れます。城下を街道が何度も折れるところが、城下町らしい。
人々の往来が盛んだったこの町で、信長は午前と午後の1日2回清掃を行わせていたといいます。きっと美しい町並みだったことでしょう。

日本で最初のキリシタン神学校セミナリヨの跡へ

日本で最初のキリシタン神学校セミナリヨの跡へ

写真:塚本 隆司

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安土の町で最も特徴的であった場所といえば、日本初のキリシタン神学校「セミナリヨ」です。案内板を頼りに下街道から少し東へそれたところに、セミナリヨ公園(伝セミナリヨ跡)があります。

大臼(ダイウス)という地名が残っており、ゼウスが転化したものといわれていますが、他にも「シュノミザ」と呼ばれる地名もあり、正確な場所はいまだわかっていません。

日本で最初のキリシタン神学校セミナリヨの跡へ

写真:塚本 隆司

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ルイス・フロイスは著書「日本史」の中でセミナリヨについて「信長の宮殿を除いては、安土において最も美しく気品のある邸のひとつ」「信長が何度も現場を視察し称賛した」と記しています。
場所については「これ以上見つけることも望むこともできぬほど良好な場所」で、信長が「付近の家臣の屋敷を4,5軒除去して土地を追加で与え、資金援助もしてくれた」とあり、信長のお気に入りぶりが伝わってきます。

伝セミナリヨ跡には、長崎西坂の丘で殉教した日本二十六聖人の1人、三木パウロの遺骨が納められています。安土山を背にした石碑が印象的です。

日本で最初のキリシタン神学校セミナリヨの跡へ

写真:塚本 隆司

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下街道を安土山に向かって進む途中に、信長が命名し相撲番付の東西制の由来となった東姓の家の前を通ります。他にも大きな常夜灯など、歴史を感じずにはいられません。

しばらく歩けば「安土の辻」のバス停があります。名前の通りなら、この場所が安土の町を代表する交差点です。堀に架かる百々橋(どどばし)を渡れば、安土城への登城口「百々橋口」があります。現在は下山用のルートで登城はできませんが、当時はここが通用口。登城する者やハ見寺(そうけんじ)への参詣者で賑わったに違いありません。

武将達も歩いた西の湖から安土城への道

武将達も歩いた西の湖から安土城への道

写真:塚本 隆司

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百々橋から西へまっすぐ歩けば、活津彦根神社があります。創建年代は不明ですが、信長が参詣し安土城を築いたことや、彦根の名の由来になった由緒ある神社です。

武将達も歩いた西の湖から安土城への道

写真:塚本 隆司

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さらに西へと進めば西の湖(常楽寺うみ)にでます。沿岸部の民家や畑の一部に見える石垣は、昔の沿岸跡と関係があると考えられています。古地図によると、馬場や女郎町が近くにあったようです。

羽柴秀吉や明智光秀らも船で琵琶湖を渡り西の湖で下船、活津彦根神社前を通って百々橋口から登城をしたのかも知れません。

武将達も歩いた西の湖から安土城への道

写真:塚本 隆司

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安土城は3方を湖に囲まれていましたが、今は干拓され現在残っているのは西の湖のみ。遊覧船に乗り、水郷めぐりが楽しめます。船内では、近江の郷土料理「じゅんじゅん」(鶏肉などをすき焼き風に味付けした鍋料理)が味わえるコースもあるので、詳しくは、滋賀・びわ湖観光情報サイトの「西の湖めぐり」を参考にしてください。

西の湖周辺は「西の湖すてーしょん」をはじめカフェなどもあり、まち歩きの最終地点にふさわしい場所です。真っすぐ南へ15分ほど歩けばJR安土駅に戻れます。

まち歩き+安土城跡+資料館で1日楽しめる安土の町

紹介した行程なら、徒歩で2〜3時間程度。細い路地が多く道幅の割に車の交通量が多いところもありますが、道は平坦なので歩きやすいです。駅前にはレンタルサイクル店がいくつかあるので、自転車で巡るのもオススメです。静かな町なので、節度ある行動をお願いします。

安土駅周辺には、飲食店や安土らしい土産物があり「安土城郭資料館」や「県立安土城考古博物館」「安土城天主 信長の館」などの展示施設も充実。安土城跡や西の湖めぐりを含めれば、1日中楽します。
安土の町は、まち歩きをしながら、歴史スポットを満喫できる城下町なのです。

2020年8月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

取材協力:近江八幡市

掲載内容は執筆時点のものです。 2020/03/13−2020/07/20 訪問

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