小早川隆景が築いた山城!広島県三原市「新高山城」に登ろう

小早川隆景が築いた山城!広島県三原市「新高山城」に登ろう

更新日:2020/08/29 14:47

木村 岳人のプロフィール写真 木村 岳人 フリーライター
瀬戸内海に面した三原市中心部から西へ約10kmの内陸に位置する本郷には、沼田(ぬた)川を挟んだ両岸に「高山城」と「新高山城」の二つの山城がそびえています。

そのうち「新高山城」は毛利元就の三男・小早川隆景が築いた城であり、それ以前に小早川氏の居城であった「高山城」および隆景が後に築く「三原城」と共に「小早川氏城跡」として国の史跡に指定されており、日本城郭協会の続日本100名城にも選ばれています。

代々の居城「高山城」から新たに築いた「新高山城」へ

代々の居城「高山城」から新たに築いた「新高山城」へ

写真:木村 岳人

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小早川氏は鎌倉時代に安芸沼田荘の地頭に任命された土肥遠平(どひとおひら)を祖とする家系であり、建永元年(1206年)には遠平の孫にあたる小早川茂平(こばやかわしげひら)が沼田川の東岸に「高山城(妻高山城)」を築きました。以降、高山城は約350年に渡り改修を繰り返しつつ小早川氏の居城として地域の中核を担っていました。

戦国時代の天文19年(1550年)、中国地方の覇者・毛利元就(もうりもとなり)の三男である小早川隆景(こばやかわたかかげ)が小早川家の当主になると、隆景は家臣の人心を一新すべく高山城の対岸に「新高山城」を築城します。隆景はこの新高山城を拠点として兄の吉川春元(きっかわはるもと)と共に毛利本家を支え、黒田如水(官兵衛)や豊臣秀吉からも篤い信任を得ていきました。

代々の居城「高山城」から新たに築いた「新高山城」へ

写真:木村 岳人

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新高山城は剥き出しの岩壁がそそり立つ険しい地形であり、標高197.6mの山頂からは周辺地域を見渡すことができます。北側から東側にかけて流れる沼田川を天然の濠として利用しており、対岸の高山城と連携して守りを固めていました。その後の慶長元年(1596年)になると、隆景は水陸交通の便が良い三原城へと居城を移し、役目を終えた新高山城と高山城は廃城となりました。

代々の居城「高山城」から新たに築いた「新高山城」へ

写真:木村 岳人

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城の表通りにあたる大手道は南側の谷筋に続いており、現在は登山道として整備されており実に歩きやすい道のりです。直線的な道筋に沿って連なる雛壇状の曲輪(城の区画)にはかつて城の警備を行っていた番所が置かれており、今もなお曲輪を取り囲むように土塁(土の城壁)が残っています。

中腹の「匡真寺跡」には瓦片や庭園の遺構が!

中腹の「匡真寺跡」には瓦片や庭園の遺構が!

写真:木村 岳人

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大手道を上っていくと、やがて広々とした一角に差し掛かります。そこは小早川氏の菩提寺である「匡真寺(きょうしんじ)」が建っていた曲輪で、天正5年(1577年)には隆景の父・毛利元就の七回忌、および母・妙玖(みょうきゅう)の三十三回忌が執り行われました。

中腹の「匡真寺跡」には瓦片や庭園の遺構が!

写真:木村 岳人

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その敷地は東西41m、南北72mにもおよぶ広大なもので、現在もあちらこちらに瓦片が散乱しています。また北側の背面には庭石や湧水池など庭園の遺構が残っており、かつては優美な庭園が存在したことがうかがえます。

なお、匡真寺は三原城築城の際に三原城下へと移転されており、現在も宗光寺という名で存続しています。その山門は新高山城の本丸大手門を移築したものと伝えられており(異説もあり)、国の重要文化財に指定されています。

本丸の周囲に残る崩れた石垣に注目!

本丸の周囲に残る崩れた石垣に注目!

写真:木村 岳人

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匡真寺跡からさらに山道を上り詰めると、本丸の尾根筋に位置する中の丸にたどり着きます。中の丸から本丸への登り口には大きく崩れた石垣が見られますが、これは三原城を改修する際に新高山城の石垣を崩して石材を運び出したためで、かつては本丸の西側と北側により堅固な石垣が巡らされていました。

本丸の周囲に残る崩れた石垣に注目!

写真:木村 岳人

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本丸は山頂の尾根を削平して四段に築かれており、東西125mの範囲に渡って「会所」「表座敷」「裏座敷」「高間」「常の茶の湯の間」などの建物が並んでいました。永禄4年(1561年)には毛利元就と隆景が10日間滞在しており、能楽や連歌、太平記読みなどを連日催したと伝わります。

現在も本丸には建物の基礎である礎石が残っており、かつて存在した居館の面影を目にすることができます。また本丸の南西端には近世的な築城技術である内桝形の土塁が現存するなど、新高山城は中世山城から近世城郭へと至る過渡期の様相を示す城としても貴重な存在です。

「詰の丸」からは高山城や本郷の町が一望できる!

「詰の丸」からは高山城や本郷の町が一望できる!

写真:木村 岳人

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本丸からさらに一段上がると、山頂の「詰の丸」に到着です。詰の丸には巨岩が露出しており、その随所に石仏が祀られています。巨岩の一部には石材を切り出した痕である矢穴も見られ、新高山は昔から石材を産出していた山であったことが分かります。

「詰の丸」からは高山城や本郷の町が一望できる!

写真:木村 岳人

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詰の丸に立つと、対岸の高山城はもちろんのこと、本郷の町から瀬戸内海にかけて広く見渡すことができます。かつては巨岩の上に櫓が築かれていたと考えられており、近世城郭における天守台の役割を担っていました。

6基の井戸が密集する「釣井の段」は必見!

6基の井戸が密集する「釣井の段」は必見!

写真:木村 岳人

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本丸の北側には、東西50m、南北50mの広さを誇る井戸曲輪「釣井の段」が存在します。上下二段から成るその区画には6基の石積み井戸が密集しており、山頂付近であるにも関わらず今もなお水を湛える井戸も多くあります。

6基の井戸が密集する「釣井の段」は必見!

写真:木村 岳人

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特に下段には直径4.2mの井戸が現存しており、その巨大さに目を見張ります。それだけ大量の飲用水を確保する必要があったということであり、城主はもちろんのこと、数多くの家臣が山上で生活を送っていたことでしょう。

これらの主だった曲輪以外にも、新高山城の築城以前より砦が置かれていた「鐘の段」や、中の丸から西側に続く「西の丸」および「北の丸」など、新高山城には数多くの曲輪が存在します。現地で手に入るパンフレットの縄張図と実際の地形を見比べながら歩くことで、新高山城の散策をより楽しむことができるでしょう。

新高山城の基本情報

住所:広島県三原市本郷町本郷
アクセス:JR山陽本線「本郷駅」から登城口まで徒歩約25分、登口から山頂まで約30分

2020年8月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。

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