奥琵琶湖に残る中世由来の湖岸集落!長浜市「菅浦」を歩こう

奥琵琶湖に残る中世由来の湖岸集落!長浜市「菅浦」を歩こう

更新日:2020/09/01 16:17

木村 岳人のプロフィール写真 木村 岳人 フリーライター
琵琶湖最北部の奥琵琶湖に突き出た葛籠尾崎(つづらおざき)。その西岸の入江に位置する僅かな平地に「菅浦(すがうら)」の集落が存在します。

険しい地形によって周辺地域から隔絶された菅浦では、湖と山によって育まれた集落景観が良好に残っており、また中世の自治形態である“惣(そう)”の伝統が今もなお継承されている貴重な集落であることから、「菅浦の湖岸集落景観」として国の重要文化的景観に選定されています。

田畑の領有権を巡り固く結束した集落

田畑の領有権を巡り固く結束した集落

写真:木村 岳人

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菅浦の歴史は極めて古く、縄文時代には既に人の営みが存在していました。奈良時代になると湊(舟の停泊地)が設けられ、『万葉集』にも菅浦の名が詠まれています。平安時代の長久2年(1041年)には園城寺の荘園として隣村の大浦と共に大浦荘に組み込まれましたが、その後に延暦寺の末寺である竹生島に寄進されています。

田畑の領有権を巡り固く結束した集落

写真:木村 岳人

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鎌倉時代の永仁3年(1295年)になると、山を越えた北側に広がる日指(ひさし)・諸河(もろこ)の田畑を巡って大浦と対立。この領有権争いは約150年もの長きに渡り、その間に菅浦の住民たちは結束を固め、より強固な自治組織である“惣”を作り上げたのです。

現在も菅浦には集落自治の決定権を持つ「長老衆」という役職が置かれており、中世からの自治組織が緩やかに変容しつつも現在にまで受け継がれています。

琵琶湖と共に生きてきた菅浦の人々

琵琶湖と共に生きてきた菅浦の人々

写真:木村 岳人

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険しい地形によって隔絶された菅浦はまさに陸の孤島というべき場所であり、昭和41年(1966年)に道路が開通するまでは舟でしか行き来することができませんでした。

平地が少ないことから「ハマ」と呼ばれる湖岸の浜辺も重要な生活空間であり、「ウマ」という一枚板を渡して共同の洗い場としていました。またハマは作業場や資源の貯蔵場でもあり、現在も漁具の修理場や洗濯物の干し場として利用されています。

琵琶湖と共に生きてきた菅浦の人々

写真:木村 岳人

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昭和54年(1979年)には漁港が設置され、菅浦の環境は大きく変化しましたが、そのような中においても矢尻型に網を張る「エリ漁」やカラスの羽を付けた棒でアユを網へと追い込む「オイサデ漁」など、昔ながらの伝統漁業も続けられてきました。

集落の境には「四足門」が残る!

集落の境には「四足門」が残る!

写真:木村 岳人

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集落の西端と東端には「四足門(しそくもん)」と呼ばれる門が構えられています。これらは「四方門」とも称し、その名の通りかつては村の出入口にあたる四ヶ所に設けられ、集落の内と外を区切る結界としての役割を果たしていました。

集落の境には「四足門」が残る!

写真:木村 岳人

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これらの四足門が設けられるようになったのは、15世紀末から16世紀頃と推測されています。東門には文政11年(1828年)の棟札が残っており、現存するものは江戸時代後期に建てられたものであると分かります。

どちらの門も葦(ヨシ)葺きの薬医門として築かれており、実に堂々たる立派なたたずまいを見せています。特に西門は菅浦を訪れる人がまず最初に目にする建物であり、集落を象徴する存在だといえるでしょう。

路地に沿って波風除けの石垣が続く!

路地に沿って波風除けの石垣が続く!

写真:木村 岳人

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奥琵琶湖は険しい山々に取り囲まれていることから比較的波風が穏やかなのですが、菅浦は南面に開けており、なおかつ湖岸から急に落ち込んでいることから波風の影響を受けやすく、特に台風の際には荒波が押し寄せることもあります。

そのような水害から集落を守るべく、菅浦では湖岸や路地に沿って波除けの石垣が築かれています。敷地の入口部分は石垣が途切れているものの、浜へと降りる階段の位置とずらすことで波が入り込むことを防いだり、開口部に板を落として塞ぐ仕組みがあるなど、水害を防ぐための様々な工夫が見られます。

路地に沿って波風除けの石垣が続く!

写真:木村 岳人

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各家は敷地の奥に主屋を築き、その手前に土蔵や納屋などの付属屋を配置しています。かつては四足門と同じく葦葺きの屋根でしたが、道路が開通した昭和40年代に今に見られる桟瓦葺きが普及しました。

集落の鎮守「須賀神社」に残る菅浦文書と淳仁天皇の伝説!

集落の鎮守「須賀神社」に残る菅浦文書と淳仁天皇の伝説!

写真:木村 岳人

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集落の裏手には、菅浦集落の氏神である「須賀神社」が祀られています。かつては保良神社と呼ばれていましたが、明治43年(1910年)に小林神社と赤崎神社を合祀し、現在の名に改められました。

この須賀神社には、鎌倉時代から江戸時代までの集落の動向を記した『菅浦文書』が伝えられています。1200点以上におよぶ多種多様な文書から、惣を中心とする集落の構造や共同体のあり方が明らかとなっており、中世における庶民の暮らしぶりを伝える史料として極めて価値が高く、平成30年(2018年)には国宝に指定されました。

集落の鎮守「須賀神社」に残る菅浦文書と淳仁天皇の伝説!

写真:木村 岳人

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須賀神社の鳥居は西門のすぐ近くにそびえており、社殿に向かって一直線に参道が続いています。手水舎から先の石段は土足が禁じられていますので、必ず靴を脱いで参拝しましょう。

須賀神社の祭神は「大山咋神(おおやまくいのかみ)」、「大山祇神(おおやまつみのかみ)」、そして「淳仁天皇」の三柱です。一般的に、淳仁天皇は天平宝字8年(764年)に勃発した「恵美押勝の乱」において淡路島に流されたと伝わりますが、菅浦では淡路島ではなく菅浦に流されたと伝わっており、社殿の背後には淳仁天皇の墳墓とされる船型御陵も鎮座しています。

なぜ菅浦の地に淳仁天皇の伝説が残っているのかは分かっていませんが、極めて長い歴史を持つ菅浦ならではの、なんともミステリアスな伝承です。

菅浦の基本情報

住所:滋賀県長浜市西浅井町菅浦
アクセス:JR湖西線「永原駅」よりで近江鉄道バス「菅浦線」で約20分、「菅浦バス停」下車すぐ

2020年8月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。

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