上杉謙信も手を焼いた!富山県砺波市の要害堅城「増山城」

上杉謙信も手を焼いた!富山県砺波市の要害堅城「増山城」

更新日:2020/09/09 14:28

木村 岳人のプロフィール写真 木村 岳人 フリーライター
富山県西部に広がる砺波平野の東縁部、和田川の東岸にたたずむ標高約120mの丘陵上に、かの軍神・上杉謙信も攻略に手を焼いた中世山城「増山城」が存在します。

その城域は東西0.9km、南北約1.4kmの範囲に及ぶ広大なもので、富山県内屈指の規模と発達した防御機能を備えることから、越中三大山城のひとつに数えられると共に国の史跡に指定されており、また日本城郭協会の続日本100名城にも選ばれています。

歴代の城主によって整備が繰り返された要衝の城

歴代の城主によって整備が繰り返された要衝の城

写真:木村 岳人

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増山城は砺波(となみ)郡、射水(いみず)郡、婦負(ねい)郡の三郡境という要衝に位置しており、南北朝時代の史料『二宮円阿(にのみやえんあ)軍忠状』に記されている「和田城」がその前身であると考えられています。

室町時代になると越中守護代・神保氏の拠点として整備され、戦国時代の永禄3年(1560年)に上杉謙信の侵攻を受けた神保長職(じんぼうながもと)は増山城に籠城しました。この時、謙信は書状に「増山之事 元来嶮難之地 人衆以相当 如何ニも手堅相抱候間」と記しており、増山城がいかに堅固な城であったのかが分かります。

歴代の城主によって整備が繰り返された要衝の城

写真:木村 岳人

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その後、越中を平定した織田信長の家臣・佐々成政(さっさなりまさ)によって大改修が行われ、また豊臣秀吉の時代には前田利家の家臣・中川光重(なかがわみつしげ)が城主となり、慶長年間(1596〜1615年)頃に廃城となりました。

増山城を訪れる際には、まずは砺波市立庄東小学校に併設されている「砺波市埋蔵文化センター」に立ち寄ることをおすすめします。館内には増山城のパンフレットや続100名城スタンプが置いてあり、また増山城の立体模型や周辺地域で発掘された品々が展示されているなど、増山城や砺波市の歴史についてより深く知ることができます。

守りの仕掛けが施された登城路

守りの仕掛けが施された登城路

写真:木村 岳人

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増山城への登城路は、主に北側から上る「ウラナギ口」と、西側から上る「七曲口」が存在します。どの道が大手口(城の表玄関)であったのかは明らかではありませんが、北側には駐車場やトイレを備えた「増山陣屋」が設けられていますので、ここを散策の拠点にするのが良いでしょう。

ウラナギ口の登城路は和田川ダムの堤体を渡った平場から始まります。谷間を通る直線的な道筋で、両岸には急な斜面が迫っています。正面には侵入者を迎撃するための曲輪(城の区画)が設けられており、まさに守りに適した地形であるといえるでしょう。

守りの仕掛けが施された登城路

写真:木村 岳人

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ここで注目して頂きたいのは、左右の尾根筋に見られる堀切です。登城路の左右に連なる尾根を切断することで尾根伝いの侵入を防いでおり、敵の移動経路を谷間のみに限定することで三方から弓矢を射掛けて一網打尽にすることができるのです。

土塁が残る「馬之背ゴ」や、貴重な水源「又兵衛清水」も見逃せない!

土塁が残る「馬之背ゴ」や、貴重な水源「又兵衛清水」も見逃せない!

写真:木村 岳人

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登城路を上り切ると「馬之背ゴ」と呼ばれる曲輪にたどり着きます。L字型の尾根を削平して平場を築いており、特に西側には長大な土塁(土の城壁)が巡らされています。南側には櫓台と思われる突出部も見られ、敵の侵入に備えていたことが分かります。

土塁が残る「馬之背ゴ」や、貴重な水源「又兵衛清水」も見逃せない!

写真:木村 岳人

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さらに道なりに進んで行くと、尾根筋から一段下の谷間に「又兵衛清水」と呼ばれる水場が存在します。これは増山城を築城する際に山名又兵衛という人物が発見したと伝わる湧水で、城の主要部直下に位置することから極めて重要な水源であったことは想像に難くありません。

「一ノ丸」からは城下町の跡が一望できる!

「一ノ丸」からは城下町の跡が一望できる!

写真:木村 岳人

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又兵衛清水を通り過ぎると、いよいよ主要部に差し掛かります。その上り口にはかつて増山城で唯一の石垣が築かれていましたが、廃城後に石材の大部分が持ち去られ、現在は「鏡石」と呼ばれる大ぶりの石が残るのみです。

「一ノ丸」からは城下町の跡が一望できる!

写真:木村 岳人

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鏡石の西側には「一ノ丸」と呼ばれる曲輪が広がっています。一般的に「一ノ丸」というと城の一番重要な曲輪である「主郭(本丸)」を指すものですが、増山城の場合は江戸時代に城下町が存在した西側から順番に「一ノ丸」「二ノ丸」「三ノ丸」と呼んでいたことに由来するもので、一ノ丸が主郭というわけではありません。

とはいえ、一ノ丸は「ウラナギ口」と「七曲口」の二つの道筋を見下ろす位置にあり、侵入者を迎撃するのに極めて重要な曲輪であったことは間違いありません。

「一ノ丸」からは城下町の跡が一望できる!

写真:木村 岳人

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一ノ丸の南西端からは、かつて城下町が存在した和田川の西岸一帯を見下ろすことができます。増山城の城下町は16世紀後半から築かれましたが、廃城後の寛文3年(1663年)に芹谷野用水が開削されたことで住民たちは用水沿いへと移住しました。

現在、かつての城下町地区には田畑が広がっていますが、その東端には登城口を防御するために築かれた土塁が約80mに渡って現存します。

主郭の「二ノ丸」は立派な虎口や櫓台が残る!

主郭の「二ノ丸」は立派な虎口や櫓台が残る!

写真:木村 岳人

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鏡石の東に位置する「二ノ丸」は増山城の主郭であり、東西90m、南北50mと城内最大の規模を誇ります。四方を「一ノ丸」「安室(あぢち)屋敷」「三ノ丸」「無常」の曲輪で囲んで守りを厳重に固めており、その虎口(曲輪の出入口)は門や櫓を備えていたと思われる立派なもので、また北東隅には一段高い櫓台を設け、城の威厳を高めています。

主郭の「二ノ丸」は立派な虎口や櫓台が残る!

写真:木村 岳人

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「二ノ丸」からはさらに北東へと抜ける散策路が伸びており、増山城の北側を守っていた出城である「亀山城」まで行くことができます。その途中にある「池ノ平等屋敷」には、増山城が落城した際に神保氏の夫人が身を投げたと伝わる井戸が見られるなど、数多くの遺構が残っており散策のしがいがあります。体力や時間に余裕がある方は、ぜひとも亀山城まで足を伸ばしてみてください。

増山城の基本情報

住所:富山県砺波市増山
電話番号:0763-37-1303(砺波市埋蔵文化財センター)
アクセス:JR城端線「砺波駅」から車で約20分

2020年9月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。

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