写真:乾口 達司
地図を見る御祭神は誉田別命、息長帯姫命、玉依姫命。社伝によると、葛飾八幡宮の創建は寛平年間(889ー898)。宇多天皇の勅願により、京都・石清水八幡宮より当地に勧請されたのが、そのはじまりであるといわれています。以来、下総国の総鎮守として、当地の人々の崇敬を集めてきました。ご覧のように、現在でも参拝者がひっきりなしに参拝し、本殿に向かって手を合わせています。その光景からも葛飾八幡宮の格式の高さがうかがえるでしょう。
写真:乾口 達司
地図を見る本殿にいたる参道には、朱塗りの大きな随神門が残されています。幅10メートル、横4.5メートルという巨大な規模を誇り、各所に使われている部材も堅牢そのもの。現在、市川市指定の文化財に登録されています。
この随神門、実は近世までは上野・寛永寺の末寺となる八幡山法漸寺の仁王門でした。ところが、明治初年代におこなわれた神仏分離により、葛飾八幡宮の随神門に変更されました。したがって、元来、門には仁王像が屹立していましたが、葛飾八幡宮の随神門に変更となったのにともない、いまでは左大臣・右大臣の随神が両脇をかためています。寛永寺と深い関わりを持っていたという事実からも、葛飾八幡宮のたたえる豊かな歴史がうかがえますね。
写真:乾口 達司
地図を見る本殿にお参りしたら、その脇に立つ写真の公孫樹(イチョウ)にも目を向けてください。無数の幹が寄り集まり、あたかも一本の樹木になって伸びているように見えませんか?その独特の形状から「千本公孫樹」と呼ばれており、葛飾八幡宮の御神木として、大切にまつられています。樹高は22メートル、根回りは10メートル以上で、現在、国の天然記念物に指定されています。その特異な姿は古くから広く知られており、江戸時代に書かれた『江戸名所図会』でもその威容が紹介されています。
写真:乾口 達司
地図を見る葛飾八幡宮は特に関東武士の崇敬をあつめてきました。その象徴が、写真の源頼朝ゆかりの駒どめ石。治承4年(1180年)、平家との戦に敗れた源頼朝は安房国から下総国へと入り、葛飾八幡宮に参拝。戦勝と武運長久を祈願しています。その折、頼朝の馬がこの石に前脚をかけたところ、写真のような蹄の痕が残ったとのこと。頼朝のほかにも、江戸城を築城した太田道灌や徳川家康などが葛飾八幡宮を崇敬しています。武家の崇敬が厚かったことが、ここからもわかりますよね。
写真:乾口 達司
地図を見る写真は参道脇に立つ岡晴夫の顕彰碑。『憧れのハワイ航路』などのヒット曲で岡晴夫の名を知っている人も多いでしょう。しかし、なぜ、岡の顕彰碑が葛飾八幡宮にあるのでしょうか?実は岡は、昭和45年5月19日、ここ、八幡の地で生涯を閉じているのです。ちなみに表の「大衆の心を歌う岡晴夫君」という銘文は、岡と同じ時代を生きた歌手・藤山一郎の筆によるもの。関東屈指の古社に昭和を代表する歌手の顕彰碑があるということ、びっくりですね。
葛飾八幡宮が頼朝から岡晴夫、藤山一郎まで、さまざまな偉人たちと深い関わりを有していることが、おわかりになったのではないでしょうか。ほかにも、境内には市川の特産・梨の開発に尽力した川上善六の記念碑などが残り、葛飾八幡宮の豊かな歴史と文化をしのぶことができます。当地を訪れた際、広大な境内をのんびり散策して、葛飾八幡宮の豊かな歴史を堪能してみてください。
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(2024/12/2更新)
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