陣屋町の風情が薫る湖岸の町〜滋賀県高島市「大溝」を歩こう

陣屋町の風情が薫る湖岸の町〜滋賀県高島市「大溝」を歩こう

更新日:2020/09/16 10:00

木村 岳人のプロフィール写真 木村 岳人 フリーライター
琵琶湖の北西部に位置する高島市。その南端に位置する旧大溝(現在の勝野)地区は、江戸時代に大溝藩の藩庁が置かれ、湖西地方の中核を担っていた歴史ある町です。

現在も大溝城跡を中心として陣屋町時代に築かれた町割が受け継がれており、琵琶湖や内湖、山麓の湧水を利用して営まれてきた人々の生活や生業に由来する景観が残ることから、町域の大部分が「大溝の水辺景観」として国の重要文化的景観に選定されています。

織田信長の甥が築いた「大溝城」

織田信長の甥が築いた「大溝城」

写真:木村 岳人

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大溝は古代からの西近江路(北陸道)が通ると共に、湖上交通の拠点であった勝野津にも比定されているなど、古くより交通の要衝として知られていました。

戦国時代、琵琶湖の東岸に安土城を築いた織田信長は、その対岸に位置する大溝を重視し、甥である津田信澄(つだのぶずみ)に大溝城を築かせました。伝承によると、その縄張(城の設計)は明智光秀が行ったとされ、琵琶湖や内湖を巧みに取り込んだ水城として築かれています。

織田信長の甥が築いた「大溝城」

写真:木村 岳人

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信澄は地域の開発や発展に尽力するとともに、信長の側近として織田軍の一翼を担っていました。しかしながら、本能寺の変において信長が明智光秀によって討たれると、光秀の娘を正室としていた信澄にも嫌疑がかかります。結局、信長の三男である織田信孝(のぶたか)と信孝を補佐していた丹羽長秀(にわながひで)によって追い詰められ、信澄は大坂城にて自刃しました。

その後、江戸時代に入ると元和元年(1615年)の一国一城令によって大溝城は廃城となり、天守等の建物は解体され甲賀の水口岡山城へと移されました。現在の大溝城は本丸跡の天守台だけが残っています。

武家地の正門であった「総門」に立ち寄ろう!

武家地の正門であった「総門」に立ち寄ろう!

写真:木村 岳人

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元和5年(1619年)に大溝藩主となった分部光信(わけべみつのぶ)は、大溝城の敷地を引き継ぐ形で陣屋を構え、その西側には武家地を、北側には町人地を整備しました。

旧武家地は今もなお「郭内(かくない)」と呼ばれており、かつては周囲に堀が巡らされ、四方に門が構えられていました。そのうち正門にあたる北側の「総門」は現在もその場所に残っており、まち並み案内処として活用されています。

武家地の正門であった「総門」に立ち寄ろう!

写真:木村 岳人

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長らく民家として使用されていたこともあって改変されている部分もありますが、扉の左右に部屋を設けた長屋門形式で、桁行(横幅)は約17.8m、梁間(奥行)約3.9mと、武家地の正門にふさわしい壮大な構えであったことが分かります。

屋根の棟瓦には分部家の家紋である「丸の内に三つ引き」も見られ、唯一現存する大溝陣屋関連の建造物として貴重な存在です。

西近江路沿いには昔ながらの商家が並ぶ!

西近江路沿いには昔ながらの商家が並ぶ!

写真:木村 岳人

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旧町人地は武家地よりも通りに面した間口が狭く、奥行きの深い短冊形の町割なのが特徴です。路地の中央には石積みの水路が通されており、生活用水や防火用水として利用されていました。

西近江路沿いには昔ながらの商家が並ぶ!

写真:木村 岳人

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また大溝城跡の東側には京都と北陸を結んでいた街道である「西近江路」が通っています。陸上交通と湖上交通の結束点であった大溝は商業も盛んに行われ、現在も旧街道に沿って立派な商家が建ち並んでいます。

西近江路沿いには昔ながらの商家が並ぶ!

写真:木村 岳人

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なお、大溝の町人地には所々に山蔵と呼ばれる背の高い建物が存在します。これは「曳山(ひきやま)」と呼ばれる山車(だし)を収納している倉庫で、毎年5月に行われる「大溝祭」では湖西地方唯一の曳山祭りとして計5基の曳山が町内を巡ります。

「乙女ヶ池」と「打下集落」に見られる水辺の風景

「乙女ヶ池」と「打下集落」に見られる水辺の風景

写真:木村 岳人

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大溝城跡の南側には、城の外濠として利用されていた内湖「乙女ヶ池」が広がっています。表の琵琶湖に対して「ウラウミ」や「セド(背戸)ウミ」と呼ばれ、船着き場や洗い場などとして利用されていました。

乙女ヶ池は西側の水田より栄養豊富な水が流れ込むことからマツモやマコモなどの水生植物が群生しており、それらの水草は昔から畑の肥料や家畜の飼料として重宝されたといいます。現在は公園として整備されており、周囲を散策しながら水辺の風景を楽しむことができます。

「乙女ヶ池」と「打下集落」に見られる水辺の風景

写真:木村 岳人

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琵琶湖と乙女ヶ池を隔てている砂州には「打下(うちおろし)集落」が連なります。大溝城の築城時に開かれた集落であり、平時には水運や漁労に携わり、戦時には水軍として戦う人々が住んでいました。

その湖岸には集落を高波から守るための石垣が築かれており、所々に切れ目を設けて琵琶湖へ下りる通路としています。浜には「ハシイタ」と呼ばれる桟橋を架け、各戸の洗い場としていました。

独特の水利システム「古式水道」が面白い!

独特の水利システム「古式水道」が面白い!

写真:木村 岳人

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大溝には「古式水道」と呼ばれる珍しい水利システムが残っています。この辺りの地域は地下水に鉄分が多いことから井戸による飲用水の確保が難しく、背後の山麓から湧き出る水を竹筒(現在は塩化ビニールパイプ)で導水しており、その起源は江戸時代に遡るといいます。

独特の水利システム「古式水道」が面白い!

写真:木村 岳人

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水路の所々には「タチアガリ」と呼ばれる高さ2m程の分水槽を設けており、そこから各家へと配水しています。煉瓦造の水槽からパイプが複雑に伸びたその構造はとてもユニークで、大溝でしか見ることができない必見のスポットです。

一年中涸れることのない古式水道は住民の方々によって維持・管理がなされており、今もなお清浄な水音を集落に響かせています。

大溝の基本情報

住所:滋賀県高島市勝野
電話番号:0740-36-2011(大溝まち並み案内処)
アクセス:JR湖西線「近江高島駅」から徒歩約1分

2020年9月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。

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