写真:乾口 達司
地図を見る近つ飛鳥博物館の開館は1994年。以来、大阪府を代表する考古学関係の博物館として、考古学や古代史に関心を持つ観覧者がたくさん訪れています。ちなみに「近つ飛鳥」という名称は『古事記』のなかの記述に由来します。『古事記』によると、墨江中王の乱の折、後に反正天皇となる水歯別命がみずからの移動径路にもとづいて現在の南河内一帯を「近つ飛鳥」、奈良県明日香村の地を「遠つ飛鳥」と呼んでいますが、当館の位置する河南町はまさしくその「近つ飛鳥」の真只中。その名称からも、当館が古墳時代と深い関わりを持つ博物館であることがうかがえるでしょう。
館内に足を踏み入れると、まず目をひくのが、中央部に設置された写真の巨大模型。日本最大の前方後円墳として知られる堺市の仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)を築造当時の姿に再現したものです。そのスケールは実物の150分の1に縮小されているとはいえ、その大きさは模型の向こう側に見えている椅子がとても小さく見えるほど!よく見ると、仁徳天皇陵古墳の周囲には被葬者の近親者や臣下、あるいは副葬品の数々を埋葬した数多くの陪冢(ばいちょう)や周濠でかこまれた首長の館、古墳の築造に関わったと考えられる人々や彼らの暮らす住居まで忠実に再現されており、その精密な造型によって、当時の巨大古墳がどのような姿であったかがしのばれます。さながら古代にタイムスリップしたかのようですね。
写真:乾口 達司
地図を見るもちろん、発掘調査により、実際に土のなかから出土した古代の遺物も数多く展示されています。写真は埴輪コーナー。埴輪というと、人物や動物をかたどったものを連想してしまいますが、写真のように、家屋や盾、貴人にさしかけた傘などをかたどった埴輪も並べられており、埴輪の種類が私たちの想像よりもはるかに多彩であることを教えられます。どのような埴輪があるのか、楽しみながら観覧しましょう。
写真:乾口 達司
地図を見るこちらは古墳から出土した石棺の数々。手前から割竹形石棺、長持形石棺、刳り抜き式家形石棺などとなっており、一口に石棺といっても、その形状が異なっていることにお気づきになるでしょう。使われている石材の産地も讃岐・播磨・阿蘇とそれぞれ別。石棺一つを例にあげても、当時の地域間の交流の広がりがうかがえますね。
写真:乾口 達司
地図を見る近つ飛鳥博物館ならではの展示品としては、ぜひご覧いただきたいのが、誰もがよく知る、あの聖徳太子のお墓の内部を再現した大型模型です。聖徳太子の陵墓があるのは、近つ飛鳥博物館の近くに位置する叡福寺の境内。ご覧のように、切石加工がほどこされた石室内には3つの棺が安置されており、画面の左手に当たる石室の奥側には聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)、右手に太子自身と妃の膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)のご遺体をおさめた棺がそれぞれ安置されているとされます。石室内への立ち入りは、現在、厳しく戒められているため、叡福寺を訪れても、石室の内部まではうかがうことができません。石室内がどのような状態であるのかを知るのにも、館内に設置された再現模型はきわめて貴重であるといえるでしょう。
写真:乾口 達司
地図を見る近つ飛鳥博物館を訪れたら、建物自体にも目を向けてみましょう。第26回日本芸術大賞を受賞した当館の設計者は、建築家の安藤忠雄。ご覧のように、建物の上部には、コンクリートでかためられた階段が全面に敷かれており、左手には「黄泉の塔」と呼ばれる建造物が空に向かって屹立しています。館内を見てまわった後は階段に腰を下ろし、付近の景色をゆっくり眺めてみてはいかがでしょうか。
近つ飛鳥博物館が考古学や古代史の研究にとっていかに重要な施設であるか、おわかりになったのではないでしょうか。博物館の周辺には大規模な群集墳も点在しており、古墳によっては、そのまま保存・展示されているものもあります。館内だけでなく、館外に点在する群集墳も見てまわりながら、大阪の古代史に思いを馳せてみましょう。
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この記事を書いたナビゲーター
乾口 達司
これまでは日本文学や歴史学の世界で培った見識にもとづいて数多くの評論や書評を執筆してまいりました。奈良生まれ、奈良育ちの生粋の奈良っ子。奈良といえば日本を代表する観光地の一つですが、地元民の立場からい…
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