夏目漱石の一生を1時間でたどる早稲田・雑司ヶ谷散歩

夏目漱石の一生を1時間でたどる早稲田・雑司ヶ谷散歩

更新日:2018/04/04 12:54

明治の文豪・夏目漱石がいま、ちょっとしたブームになっているそうです。
たとえば、1914年に朝日新聞で連載された「こころ」。
その100周年を機に、朝日新聞の朝刊で100年ぶりの連載がスタートしたことがきっかけで、文庫本「こころ」の売り上げが倍増しているとか。
その読者層も中高年から10代の若者までと幅広い世代のこころを、いまなおわしづかみにする夏目漱石。
その一生を1時間でたどる散策はいかが?

漱石誕生の地はいま、あの定食チェーン店!?

漱石誕生の地はいま、あの定食チェーン店!?
地図を見る

漱石の一生をたどる散歩は、東京メトロ東西線の早稲田駅から始まります。
高田馬場方面にある改札を出て、2番出口から地上へ。
すぐ右手に横断歩道があるので、これを渡りましょう。
目の前に東京をはじめとした関東から九州にかけて、さらに海外(タイ、シンガポール、オーストラリア)にも出店する外食チェーン店「やよい軒」が見えます。
ここがこの散歩の第1ポイントです。

1867年の旧暦1月5日、漱石はこの地で生まれました。
元号にすれば江戸時代も大詰めの慶応三年です。
この年、江戸幕府は大政奉還によって滅び、翌年に明治維新を迎えます。
夏目家はこの地域では名主であり、漱石はその五男三女の末っ子として産声を上げました。
もちろん当時、「やよい軒」があったわけではありません。
余談ですが、この地には「やよい軒」の前は牛丼の「吉野家」がありました。
こちらも言わずとしれた全国展開のチェーン店。
すぐ近くには早稲田大学もありますし、地下鉄駅のすぐそばということもあって、外食のお店が入りやすいのでしょうね。

このすぐ隣には「リカーショップ小倉(こくら)屋」という酒屋があります。
漱石は1915(大正4)年に発表した随筆「硝子戸の中」の19章を次のように書き始めています。
「私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。(中略)それから坂を下りきった所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。」
150年も前からあった古い酒屋なんだな〜。
でもこのくらいで驚いてはいけません。
実は江戸元禄の1687年創業と伝えられていますので、およそ330年の歴史を誇る老舗中の老舗なんですね。

小倉屋と聞いて、講談「高田馬場の仇討ち」を思い出す人もいるかもしれません。
あの「忠臣蔵」の赤穂浪士四十七士のひとり堀部安兵衛は、頼まれた仇討ちに出かける前に、立ち寄った酒屋で酒を升でぐいっと飲み干して、高田馬場へと走ったといいます。
その酒屋こそが、小倉屋なんですね。
仇討ちは1694年のことといいますから、創業からまだ7年目のことになります。
漱石の生家は、「高田馬場の仇討ち」の舞台・小倉屋の裏手にあったのです。

「夏目坂」は漱石ではなく父親ゆかりの地名だった

「夏目坂」は漱石ではなく父親ゆかりの地名だった
地図を見る

それでは漱石誕生の地から、文豪の生涯をたどる1時間散歩がスタートです。
ゆるやかな坂道をのぼっていきます。
この坂道、夏目坂といいます。
夏目って、まさか・・・。
「硝子戸の中」で漱石はこの坂の名の由来について書いています。
彼の父親が自分の姓名をつけて呼んでいたものが、いつしか人々の間にも広まり、「夏目坂」として定着したのだそうです。
文豪・漱石にあやかったのではなく、父親が名付けたというのがちょっと意外ですね。

夏目坂を上がるとすぐ右手に「餃子の王将」が見えます。
ちょっとこちらで小さな道を右折してみましょう。
道なりに行くと「誓閑寺」というお寺があります。
ここは「硝子戸の中」に「西閑寺」という表記で出てくるお寺で、境内の「鉦(かね)」の音は、漱石の記憶の中で「何時でも私の心に悲しくて冷たい或物を叩き込むやうに」感じさせたといいます。
また、1906(明治39)年発表の小説「二百十日」では「寒磬寺」として登場しています。
誓閑寺にある梵鐘は新宿区内最古(1682年寄進)のもので、区の指定有形文化財です。
ただし、「硝子戸の中」にでてくる鉦とは別のものだそうです。

それでは坂をさらに上がっていきましょう。
夏目坂はやがて右の方に曲がっていくのですが、散歩ルートはここで坂とわかれて直進する道へ。
その途中には、「生まれ出づる悩み」などで知られる小説家・有島武郎(1878〜1923年)が晩年を過ごした旧居跡もあります。
建物はありませんが、その案内板をさがしながら歩いてみましょう。

生誕の地から徒歩わずか10分ちょっと!そこは漱石終焉の地

生誕の地から徒歩わずか10分ちょっと!そこは漱石終焉の地
地図を見る

漱石誕生の地から夏目坂を上がり、そのまま直進し、左手に「ヒロマルチェーン コンビニエンス」というそれほど大きくない看板が3階にある建物が見えてきたら、こちらを左折します。
なお、コンビニエンスとありますが、コンビニエンスストアはありません。
そのまままっすぐ歩いて行くと、つきあたりに公園が見えてきます。
つきあたりまできたら右折しましょう。
すると漱石の胸像が左に見えてきます。
ここは漱石公園。
1907(明治40)年9月から1916(大正5)年12月までの9年間、漱石はこの地にあった「漱石山房」と呼ばれる家で過ごしました。
「吾輩は猫である」で作家デビューを果たしたのは1905(明治38)年。
翌年に「坊っちゃん」を発表し、一流作家の地位を築いてから40歳で漱石山房に転居しました。
つまり文豪・漱石としての人生の大半を過ごした場所と言えるでしょう。

公園に入ってみましょう。
入場は無料。
開園時間は4〜9月が午前8時〜午後7時、10〜3月が午前8時〜午後5時となっています。
漱石が暮らし、「三四郎」「それから」「こころ」「道草」などの名作が生まれ、毎週木曜日になると俳人・高浜虚子、岩波書店の創業者・岩波茂雄、「父帰る」など名作で知られる菊池寛、小説家・内田百閨iひゃっけん)、童話作家・鈴木三重吉など門下生たちで賑わった漱石山房。
残念ながら、太平洋戦争で焼失してしまいました。
現在は漱石山房があったとされる位置に客間と書斎を囲むベランダ風回廊の一部が復元されています。
内部には入れませんが、ベランダでくつろぐ漱石の写真(コピー)などが貼られていて、当時の様子をわずかながらしのぶこともできます。

漱石はここで1916年12月9日に亡くなりました。
享年49でした。
そのため漱石公園は「夏目漱石終焉の地」とも呼ばれています。
地下鉄早稲田駅そばの誕生の地から、まっすぐ最短ルートをとれば、徒歩10分くらいの距離でしかありません。
漱石は四国松山で中学教員を務め(あの「坊っちゃん」がうまれるきっかけになった土地です)、九州熊本へ高校教師として赴任し、船に乗ってイギリスのロンドンに3年間留学するなど、その生涯で東京を離れた時期もありましたが、結局、生まれた場所と亡くなった場所は目と鼻の先だったというのが不思議ですね。

猫塚は、ひょっとして「吾輩は猫である」のネコのお墓?

猫塚は、ひょっとして「吾輩は猫である」のネコのお墓?
地図を見る

漱石公園には不思議な供養塔があります。
これは猫塚と呼ばれています。
漱石といえば「吾輩は猫である」!
ここはあの名作に登場したネコのお墓なのでしょうか?
その答えは猫塚の隣にある案内板を見ればわかります。
漱石が飼っていたのはネコだけではありませんでした。
犬や小鳥も彼のペットでした。
漱石が亡くなったあと、遺族が飼っていたこれらペットたちの供養のために建てられたもので、決して「吾輩」のためだけのお墓ではありません。
やはり太平洋戦争で焼失してしまいますが、1953(昭和28)年の漱石37回目の命日に復元されました。

その隣には「道草庵」という漱石や山房に関するミニ資料館があります。
道草とはもちろん漱石がここで書いた自伝的小説の題名に由来します。
まあ、道草ついでにこちらものぞいてみましょう。
公園と同じく入場は無料ですので。
漱石公園のパンフレットや、漱石山房に関する小冊子もいただけます。
また、漱石山房に関するDVDも見ることができ、そのなかには60年以上も前の猫塚復元除幕式の様子を撮影した貴重な映像も残っています。
来訪する若い女性も多いそうで、漱石は現代の若者たちにも支持されているようですね。

最後は「こころ」にも登場した霊園で漱石のお墓参り

最後は「こころ」にも登場した霊園で漱石のお墓参り
地図を見る

漱石の生地と終焉の地をめぐりましたが、この散歩はまだゴール地点にはたどり着いていません。
漱石公園をあとにして、公園の前を走る「漱石山房通り」と呼ばれる路地を早稲田通りに向かって歩きましょう。
そして大隈講堂や演劇博物館など早稲田大学の名だたる建築物を見ながら、都電荒川線の早稲田駅を目指します。

早稲田は、いまや唯一残る都電となった荒川線の始発にして終着駅。
ときどき、漱石が生きた時代をほうふつとさせる明治・大正レトロ感覚たっぷりの外観と内装の電車も走っています。
せっかく漱石の生涯をたどるお散歩。
タイミングが合えば、このレトロ都電に乗りたいですね。

都電に揺られることわずか6〜7分、雑司ヶ谷駅で下車します。
ここに夏目漱石が眠っています。
といっても広大な霊園で、どこに漱石のお墓があるのかわからない!ということになりかねません。
あらかじめ霊園マップをダウンロードしておくか、事務所で霊園に眠る著名人のお墓マップを入手しておきましょう。

漱石のお墓は周囲のお墓に比べて大きめなのと、通りに背を向ける形で面しているので、見つけやすいと思います。
幼くして亡くなった三女と一緒に眠っています。
雑司ヶ谷霊園といえば「こころ」の中にも、重要な舞台として登場します。
主人公の「私」が先生を訪ねると、先生は雑司が谷の墓地に友人の墓参りに行っていました。
先生は毎月1回欠かすことなく雑司が谷墓地を訪れては、友人の墓に花を供えていました。
この友人が誰なのか?
ぜひ「こころ」をひもといてみてください。

漱石のお墓参りを済ませると、ノラネコがちょこんとお墓のそばに座っていました。
まるでお墓参りの順番を待っているかのように。
やがてノラネコはお墓のそばを通りすぎると、どこかへと姿を消しました。
あれは「吾輩は猫である」のネコの末裔なのか、それとも「こころ」の先生の仮の姿なのか・・・。
不思議な気分の中、漱石の生涯をたどる短い散歩は終わります。
ご紹介したルート、所要時間はだいたい1時間くらいです。

漱石生誕150周年の2017年、漱石山房がよみがえる

今回の散歩のハイライトのひとつが、漱石終焉の地となった漱石公園です。
以前はそれこそネコの額ほど狭く、おまけに雑草が生い茂っていて、日本が誇る国民的作家ゆかりの地にしてはかなり貧相な公園に過ぎませんでした。
しかし、漱石生誕140周年(2007年)を機に大幅リニューアルが施され、2008年2月に現在見られるような立派な公園に生まれ変わったのです。

そして2017年はいよいよ生誕150周年。
この節目の年を目指し、ベランダ風回廊だけが復元された漱石山房跡に記念館を開館させる計画が進行しています。
予定通り行けば2015年度に建築工事が着工し、2017年2月に漱石山房記念館(仮称)が開館するということです。
記念館内には書斎・客間・ベランダ式回廊などの一部が再現され、常設展はもちろん、企画展や講座などのイベントを開催し、漱石の文学を発信する拠点にするそうです。

また、漱石の著作を読みながらゆったり過ごせる図書館やカフェも設置されるとか。
2017年2月が待ち遠しいですね。
そのときはもう1時間の散歩ではなく、新しい記念館で1時間、いや、それ以上の時間を過ごしてしまいそうですが。

掲載内容は執筆時点のものです。 2014/06/14 訪問

- PR -

条件を指定して検索

- PR -

この記事に関するお問い合わせ

- 広告 -