写真:村井 マヤ
地図を見る小早川隆景は、天文14(1544)年、毛利家と姻戚関係にあった竹原小早川家の当主となる。その後、本家・沼田小早川家の娘と結婚して両小早川家を統合したが、隆景には実子がなく、桓武平氏小早川本家の血筋は途絶えることとなった。
毛利による小早川家統合後、毛利一門は弘治元(1555)年の厳島の戦いによって、村上水軍を味方に引き入れるなどして勢力を拡大する。毛利元就の死後は、早死した兄・隆元の子・輝元が家督を継いだ。若い輝元の補佐役として、吉川元春とともに毛利家を支えた(毛利両川体制)。隆景は、小早川水軍を率い、その情報収集力を利用し毛利家の外交・政務を担っていた。
黒田官兵衛との出会いは「備中高松城の戦い」の時、お互いの才能を認め合い畏友となった。隆景は、豊臣政権下におては、五大老に任じられるなど秀吉にも一目置かれる武将であった。
官兵衛は、隆景の訃報を聞き「日本に賢人はいなくなった」と嘆いたという。
小早川隆景は、知れば知るほど魅力的な人物のようだ。そんな彼が亡くなったのは慶長2(1597)年6月12日(旧暦)である。今でも、墓参者が絶えない人気の武将だ。(写真の花が手向けてあるのが隆景の墓)
広島県三原市の東盧山米山寺(べいさんじ)の小早川家の墓所に眠っている。アクセス等は下記MEMO(三原観光navi)参照。
写真:村井 マヤ
地図を見る三原の米山寺で隆景の墓参をしたら、ぜひ行っていただきたいのが三原市本郷の古墳めぐりだ。米山寺までは山陽本線三原駅からレンタカーを借りて行くか、電車を使うなら三原駅からタクシーで米山寺まで行き、その後本郷駅に戻ると良い。車なら、古墳近くまで車で行き、少し歩くのが一番早い。自動車なら、国道2号線を広島方面に向かう。本郷中学校方面に車を走らせていると「梅木原古墳」という看板が見える。本郷中学校正門から200m北上すると到着。
分かり難いので、事前に本郷町観光協会に聞いた方が良い。
この古墳は、7世紀初め頃の古墳で、山腹を切り開き巨石を積み重ねて築かれている。入り口は大きくないが、奥に入ると写真のようになっている。なかなか古墳の中にまで入ることはできないので、貴重な経験だ。巨大石室は、全長13.2m、幅3.1m、高さ4.2mもある。ドキドキしながら入ってみよう。
三原市本郷町観光協会(ガイド案内連絡先・平日9時〜12時まで)
TEL:0848-86-5717
アクセス:本郷駅から2.8k、駅前からタクシーで6分、徒歩40分。
写真:村井 マヤ
地図を見る2号線を広島方面に向かって行くと「ほんごう古墳の里」という大看板が見えてくる。そこに車を置いて古墳散策をすると便利だ。駐車場から最初の目的地「御年代古墳」までは徒歩10分(2号線の下を通る地下道を進み、旧道にでる)。駐車場を利用できないこともあるので、事前に観光協会に見学する旨伝えよう。
この古墳の面白い点は、玄室(石棺が安置してある主室)が前後に2つある点と、見事な花崗岩の家形石棺にある。石棺の蓋石は、優美に削られている。また計算尽くされた精緻な内部構造は見事だ。とくに玄室の天井や羨道は、巨大な1枚の巨石で立体的に築かれていて圧巻だ。副葬品などは、東京国立博物館に所蔵されている。
写真は、御年代古墳からの西に300m歩いたところにある「貞丸1号古墳」。貞丸2号も1号古墳から歩いてすぐのところにあるが、状態はよくない(内部の様子は見ることができる)。貞丸1号古墳は、平成13年の芸予地震の際、被害を受け石室が崩れる恐れがあったので、平成17年に現在の形に修理された。
1号、2号ともに羨道は破壊され、1号古墳内部に流紋岩質凝灰岩製の石棺がある。1号古墳は、くりぬき式家形石棺が一基あり蓋石はない。2号古墳には現在石棺はないが、周囲の状況から組合式家形石棺が納められていた可能性が示唆されている。
写真:村井 マヤ
地図を見る写真:村井 マヤ
地図を見る貞丸古墳からさらに西へ440mほどのどかな田舎の風景を見ながら歩いて行くと、「二本松古墳」の看板が見える。南方神社という神社の階段を登った境内に石棺が置かれている。古墳自体(神社が古墳?)はすでになくて、石棺だけが現存している。この石棺の蓋石や側石は、南方神社の踏み石や手水鉢として分解して利用されていた。
昭和58年に地元の方々によって復元されて安置された。後ろ側に行くとに内部が見られる。石棺の特徴としては、貞丸古墳と同じ石(兵庫県高砂市竜山の石)で、沼田川(本郷駅付近を流れる川)流域で発見された石棺のうち最古のものであること。また蓋石の長辺に立派な縄掛突起(なわかけとっき)があることなどだ。
石室の石材などを見ると、古代の兵庫県高砂市との交流が窺え興味深い。また、小早川隆景もこの地で暮らし戦国の世を生きたのだと思うと、不思議な気持ちになるのでは?古墳巡りは、歴史を身近に感じるアカデミックな旅なのだ。
この記事の関連MEMO
この記事を書いたナビゲーター
村井 マヤ
1972年、宮崎県生まれ、5歳まで兵庫県尼崎で暮らす。その後熊本に。高校3年生まで熊本で過ごす。歴史が好きで、考古学を学びたくて別府へ。温泉生活を満喫。大学卒業後、広島でさらに勉強するため学生生活を送…
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