神秘的な伝説が今も息づく!奈良・星が森「住吉神社」

神秘的な伝説が今も息づく!奈良・星が森「住吉神社」

更新日:2021/08/31 16:02

花月 文乃のプロフィール写真 花月 文乃 地域文化・民俗文化リサーチャー、グラフィックデザイナー、旅行ライター
奈良・星が森の住吉神社は、底筒男命 (そこつつのおのみこと)・中筒男命 (なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと) の住吉三神と息長足姫命(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)をお祀りする神社です。地元の人達には「おまつの宮」の愛称で氏神様として親しまれています。

今回は、星が森に鎮座する住吉神社に伝わる様々な言い伝えと共に、境内を歩きます。

どうして「おまつの宮」と呼ばれるの?

どうして「おまつの宮」と呼ばれるの?

写真:花月 文乃

地図を見る

住吉神社の入り口に立つ石柱には、「正面:おまつの宮 側面:住吉神社」と彫られています。「おまつの宮」の名前の由来は、2つ。

どうして「おまつの宮」と呼ばれるの?

写真:花月 文乃

地図を見る

一つ目は、この神社より北・約4kmにある磐船神社より、松の苗を植えたためという説。大阪府交野市の磐船神社には、饒速日命(にぎはやひ)が降臨したという伝説があります。

饒速日命は、磐船神社に降臨した後、奈良に移り、鳥見白庭山を本拠地としました。住吉神社の近隣にある白庭台には、饒速日命の安住の地と推定される「鳥見白庭山の碑」があります。

二つ目は、菅原道真が都から九州・太宰府に左遷される際に、この神社で妻と待ち合わせをして別れを惜しんだため「おまつの宮」と言われた説です。

伊邪那岐命の禊から誕生した神々

伊邪那岐命の禊から誕生した神々

写真:花月 文乃

地図を見る

参道をまっすぐに進むと、左手に「祓戸大神」とかかれた鳥居が見えてきます。鳥居前の祠には、祓戸大神の四神がお祀りされています。

祓戸大神の四神とは、瀬織津比売(せおりつひめ)・速開都比売(はやあきつひめ)・気吹戸主(いぶきどぬし)・速佐須良比売(はやさすらひめ)です。

この四神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が禊(みそぎ)をした時に生まれた神様です。

伊邪那岐命の禊から誕生した神々

写真:花月 文乃

地図を見る

伊邪那岐命は、亡くなった妻の伊邪那美命(いざなみのみこと)を連れ戻しに、死者の国を訪れます。伊邪那美命は、伊邪那岐命に自分の姿を見ないように言い残し、死者の国の神様のもとに相談にいきます。

しかし、伊邪那岐命は、約束を破り伊邪那美命の腐敗した醜い姿を見てしまい、怒り狂った伊邪那美命が遣わした鬼女・予母都志許売(よもつしこめ)と雷神達から命からがら逃げ帰りました。

地上界に戻った伊邪那岐命が、死者の国の穢れを水で洗い清めると、26柱の神様が誕生しました。この時、祓戸大神の四神だけでなく、底筒男命 ・中筒男命 ・表筒男命の住吉三神も誕生しています。

祓所は「祓う場所」の意味で、祭事を行う前に、ここでお祓いをして、拝殿に参進します。祓戸大神の右端の2つの祠にお祀りされているのは、天神様(菅原道真)と饒速日命です。

伊邪那岐命の禊から誕生した神々

写真:花月 文乃

地図を見る

他にも、本殿右手境内社の近くには、樹齢約800年以上といわれる椎の木があります。

星が森の由来

星が森の由来

写真:花月 文乃

地図を見る

本殿の前にあるステージのような建物は、舞楽を行う舞殿です。

星が森の由来

写真:花月 文乃

地図を見る

舞殿の先にある本殿には、底筒男命 ・中筒男命 ・表筒男命と息長足姫命(神功皇后)がお祀りされています。

住吉神社の御神徳は、住吉三神の御出現の由来から「心身を清浄」する「祓(はらえ)」を司り、全ての災いから身を護ることです。住吉三神は禊の最中に海中より出現したため、海の神としても信仰され、息長足姫命(神功皇后)が三韓征伐をした際、征韓の船を守護した事でも知られています。

本殿は江戸時代(1600~1868)の1823年に創建され、1838年銘の狛犬に守られています。

星が森の由来

写真:花月 文乃

地図を見る

本殿の裏手に広がる聖域が「星が森」です。「星が森」の由来には、いくつかの説があります。

一つ目は、住吉三神のお名前に含まれる「筒(つつ)」に星の意味があるという説。二つ目は、神社周辺に複数の隕石が同時に降り落ちたからという説。そして、三つ目が弘法大師と岩蔵寺にまつわる不思議な伝説です。

岩蔵寺と住吉明神の示現

岩蔵寺と住吉明神の示現

写真:花月 文乃

地図を見る

住吉神社の創始は、奈良時代(710〜784)頃とされています。江戸時代に書かれた岩蔵寺の縁起記録には、こんな話が記載されています。

唐から帰国した弘法大師が岩蔵寺を訪れた際、一人の老人がどこからともなく現れました。老人は、役行者が開山した岩蔵寺の由緒を語り「我は、この土地に鎮座する住吉明神である」と言い残し姿を消しました。

岩蔵寺を後にした弘法大師は、二町ほどの地に龍の形の池を掘り、その池を「龍ヶ池」、高林に「星か森」と名づけ、住吉明神が示現した形をとって、神の垂迹(すいじゃく)の聖地としました。「龍ヶ池」の水はこんこんと湧き出て、枯れることがありませんでした。

垂迹とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つです。仏教の仏・菩薩が人々を救うため、仮に日本の神様の姿で現れることをいいます。

岩蔵寺と住吉明神の示現

写真:花月 文乃

地図を見る

住吉神社の言い伝えで、弘法大師がこのあたりを通りかかった時に掘ったといわれる池が「龍ヶ淵」です。

「龍ヶ淵」は星が森にあり、その池の水は、どんな日照りが続いても枯れず、日照りが続く時には、村人達が龍ヶ淵をかきまわして雨乞いをすると不思議と雨が降り、作物がみのったと言います。

岩蔵寺と住吉明神の示現

写真:花月 文乃

地図を見る

ここで注目してもらいたいのが、参道を横切る側溝です。この側溝は川ではなく、「溜池」で登記されている細長い土地です。

これらの話は、岩蔵寺の縁起記録と一致するだけでなく、さらにそれが歴史的史実であったことの裏付けのようにも感じさせられます。

<住吉神社の基本情報>
住所: 奈良県生駒市南田原町803番地
アクセス:近鉄けいはんな線白庭台駅から徒歩約35分、近鉄生駒駅からバス乗車12分「お松の宮」下車

岩蔵寺

岩蔵寺

写真:花月 文乃

地図を見る

岩蔵寺は、住吉神社から徒歩約15分のところにあります。

役行者が自作の「毘沙門天像」をお祀りし「岩屋山」と名付けたことから、その歴史は始まります。役行者は、飛鳥時代(592〜710)に奈良に生まれた修験道の開祖です。

岩蔵寺の縁起記録には、奈良時代後期から平安時代初期(782〜806)に伝教大師最澄がお堂を建て、毘沙門天を自作の吉祥天女禪尼童子と共に併せてお祀りし「岩蔵寺」と名付けた事や、弘法大師が平安時代初期(810〜824頃)に立ち寄り、自作の不動明王像をお祀りしたという記載があります。

他にも、今よりも四方の方角に広大な敷地を有していたことを示す記載があり、1770年代に書かれた「十一村村鑑」には、岩蔵寺には、数多くの子院が散在していたが、後にこれらは廃寺となったとあります。これらのことから分かるのは、岩蔵寺はかつて、かなりの広範囲をしめ、隆盛を誇ったお寺だったということです。

岩蔵寺の本堂には、本尊の毘沙門天像と吉祥天女立像、善貮子童子立像がお祀りされています。ちなみに毘沙門天と吉祥天女は夫婦で、善貮子童子はその子供です。
毘沙門天像の胎内には、「正徳元年六月(1711年6月)」の銘がある毘沙門天功徳経のこけら経(薄い木片に書かれたお経)が二束おさめられています。

岩蔵寺

写真:花月 文乃

地図を見る

お堂の右手にあるのは、賓頭盧尊(びんずるそんじゃ)です。賓頭盧尊は、お釈迦さまの弟子・十六羅漢の一人で、撫でたところの病気や悩みがなくなる「撫仏(なでぼとけ)」として知られています。

岩蔵寺

写真:花月 文乃

地図を見る

岩蔵寺には、その昔、修験道の修行の場として使われていたと思われる滝や岩場が残り、石仏群や役行者磨崖仏を目にすることができます。

<岩蔵寺の基本情報>
住所: 奈良県生駒市南田原町
アクセス:近鉄けいはんな線白庭台駅から徒歩約25分

神秘的な伝説が息づく住吉神社へ行こう!

住吉神社に伝わる、さまざまな言い伝えを思いながら境内を歩いてみるのも楽しいです。

住吉神社の近隣には、住吉明神が示現したと伝わる岩蔵寺や、饒速日命が暮らしたという白庭台、饒速日命の墳墓碑があります。

ぜひ、住吉神社を訪れた際には、これらの場所にも足を伸ばして見てください。

2021年7月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

掲載内容は執筆時点のものです。 2021/06/12 訪問

- PR -

条件を指定して検索

- PR -

この記事に関するお問い合わせ

- 広告 -