写真:阿部 吾郎
地図を見る天正元年(1573年)八木川で砂金が発見されたことをきっかけに、現在の石間歩(いしまぶ)坑道で金鉱脈が発見されました。天下を統一した豊臣秀吉は、中瀬鉱山を直轄地とし、生野奉行間宮直元がこれを支配しました。ここから江戸時代にかけ、中瀬鉱山は金山として発展していきます。
明治に入って、神子畑(みこばた)・明延(あけのべ)と共に官営鉱山となりましたが、中瀬鉱山は農商務省、宮内省御料局と所管が変わり、明治29年からは三菱合資会社が経営することになりました。その後、昭和10年に日本精鉱株式会社の経営へと変わりました。明治から昭和初期まで、中瀬鉱山はあまり活用されませんでしたが、これ以降、金・銀・アンチモンを産出する鉱山として活気を取り戻していきます。昭和10年から44年の閉山までの34年間に7.2トンもの金を産出しました。
中瀬鉱山に関する資料の展示スペース、休憩場所、イベントスペースとして平成26年9月に開所した交流施設が「中瀬金山関所」です。
写真:阿部 吾郎
地図を見る建物横にある広場には、中瀬鉱山で使用されていた蓄電池式機関車(バッテリーロコ)とトロッコが展示されています。
写真:阿部 吾郎
地図を見る建物の内部には、様々な中瀬鉱山に関する資料やパネルが展示されています。
写真:阿部 吾郎
地図を見る中瀬産自然金結晶のレプリカが展示されています。一般に金鉱脈中の金は微細で、肉眼で金粒を見ることはほとんどできません。ところが中瀬鉱山では、金の結晶体が析出した美しい鉱石を産出しました。国内各地にその標本が収蔵・展示されている他、アメリカのスミソニアン博物館にも標本が展示されています。
写真:阿部 吾郎
地図を見るこちらはレプリカではなく、本物の自然金です。向かって右側の標本のように、石英脈中に美しい結晶となって見られることが多いとのことです。この2つは、いずれも金粒が肉眼で確認できる高品位の鉱石です。
写真:阿部 吾郎
地図を見るこれは、かつて金の精製に使われていた石臼です。人々は、これを石垣、庭石、漬物石などに利用したため、今でも町の様々な場所で利用されていたり、転がっていたりします。鉱石を砕きながら微粉化する「擦り臼」、鉱石をたたき割るための「搗き臼」、中央の穴から砕いた鉱石を入れ回転させて微粉化する「挽臼」など、種類も様々です。
<中瀬金山関所の基本情報>
住所:養父市中瀬896-10
電話番号:079-667-2331(養父市関宮地域局)
アクセス:JR山陰本線八鹿駅より全但バスで約35分、中瀬下車
ただし、バスの本数は1時間に1本程度
車で行くことをお勧めします(駐車場あり)
営業時間:常時会館しているわけでなく、問い合わせに応じて会館します。
訪問予定の1週間前ぐらいまでに、上記の電話番号に問い合わせてください。
※ご希望の日に必ず見学できるとは限りませんので、いくつか候補日をお考えください。後程ご紹介する石間歩坑口の見学を希望される場合、その旨も伝えてください。
写真:阿部 吾郎
地図を見る唯一坑口を見学できる「石間歩(いしまぶ)坑口」です。現在も日本精鉱社が管理しており、アンチモンの精製も行われているため内部の見学はできません。
アンチモンとは、もともと潜水艦のバッテリーに使用される軍需品だったのですが、現在では燃焼助剤、DVDディスク被膜配合剤、減摩剤、冷触媒、化繊製造の触媒、難燃剤などとして使われています。この日本精鉱の工場から、国産のアンチモンの内7から8割を出荷しています。なお、昭和44年の閉山以降、アンチモンの採掘は行われておらず、輸入したアンチモンの精製のみを行っています。
写真:阿部 吾郎
地図を見る石間歩坑口の看板より先には入れないため、写真は望遠レンズで撮影した内部の様子です。レールが敷かれているのが分かります。
写真:阿部 吾郎
地図を見る後にご紹介する大日寺の参道から見た、日本精鉱中瀬精錬所です。この中に先ほどの石間歩坑口があります。戦後、アンチモン精錬の急激な増加に対応して昭和39年に、工場背後の大鶴山上に建設された煙突が今も残っています。
写真:阿部 吾郎
地図を見る中瀬の集落は東西700メートル、南北350メートルの範囲の中にありますが、その中に5つの寺院が残されています。かつては、8つありましたが、3つは今は残っていません。
その中で、最古のお寺が高瀬山・大日寺です。天平13年(741年)の創建と言われ、但馬遍歴中の行基が春弘法師に大日如来像を彫らせて堂に安置したのが本尊です。現在の本堂は寛正10年(1798年)に再建されたものです。
写真:阿部 吾郎
地図を見る本堂の右にある小堂には蛇紋岩を彫って作られた牛の像が祀られています。見事な光沢で、美しい石像です。大日如来は牛の守り本尊として、牛馬を飼う人々から信仰を集めてきました。
現在は高野山にある国の重要文化財「牛皮曼荼羅」は、鎌倉時代にこの寺で作られたものと言われています。
写真:阿部 吾郎
地図を見る大日寺の参道の敷石ですが、影が入って少々見づらいのですが、手前の石に小さな穴が2つあいているのがお分かりになるでしょうか。これが、先ほどご紹介した鉱山臼を利用したものです。搗き臼ですね。このような形で、敷石や庭石などに利用されているのをよく見かけます。戦国から江戸時代に使われた遺物が、町中のいたるところで見られるというのも、全国的に見ても珍しい事と言えます。
<高瀬山・大日寺の基本情報>
住所:兵庫県養父市中瀬県道87号線
電話番号:079-667-2127
アクセス:JR山陰本線八鹿駅より全但バスで約35分、中瀬下車
ただし、バスの本数は1時間に1本程度
営業時間:見学自由
写真:阿部 吾郎
地図を見る高台から見た、中瀬の町です。中瀬の人々は、今も近世に造られた鉱山町の中で暮らしています。江戸時代に、3つの番所、クランクを設けた街道、八木川から引いた2本の水路などを備え、金山役所を中心に役人屋敷、牢屋、寺院などが立ち並ぶ、総構えの城下町の形を取って整備されました。この構造を、大きく変えることなく現代に引き継がれており、江戸時代の古地図と比較してもほとんど変わりがありません。
写真:阿部 吾郎
地図を見る金昌寺というお寺です。慶長14年(1609年)の創建ですが、現在の建物は火災で焼失した後に再建されたもので、明治時代には小学校として使われていた時期もあります。
先ほど、中瀬には5つの寺院があるとご紹介しましたが、大日寺、金昌寺の他、宝泉寺、金光寺、常運寺というお寺があり、いずれも江戸時代の創建です。金、宝といった文字が入っているお寺が多いのも、鉱山町の痕跡と言えます。
写真:阿部 吾郎
地図を見る慶長5年(1600年)に、徳川家康配下の生野奉行、間宮新左衛門がここに陣屋(金山役所)を始め、役宅、米蔵、牢屋を建てました。今は、建物は残っておらず、田畑として利用されていますが、当時の石垣が残されています。本格的な発掘調査も行われておらず、その全貌は明らかにされていません。
中瀬金山関所のオープン、各スポットの看板設置などは進んでいるものの、中瀬鉱山町は観光地としての整備はまだまだ進んでおらず、目玉となる観光施設もないのが現状です。しかし、近世の鉱山町が、これほど当時の面影をはっきり残しながら現存している例は全国的に珍しく、そういった意味で非常に価値が高い場所であることも事実です。近世、近代の産業遺構に興味のある方は、是非訪れていただきたい場所です。
2021年9月現在の情報です。最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。
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(2024/3/19更新)
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